小池家継
日本の美濃国の武士・国人
小池 家継(こいけ いえつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武士、国人。森氏の家臣。美濃国今城主[1]。家紋は「梅に鶯(うぐいす)」[1]。天正10年(1582年)に起きた本能寺の変を機に森氏への反抗を開始したが、鎮圧されて帰農した[2]。
時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 不明 |
別名 | 通称:小池 刑部 藤原之家継 |
主君 | 森可成→長可 |
氏族 | 小池氏 |
略歴
編集小池氏は現在の岐阜県可児市の南西部を支配していた国人。家継の家系は鎌倉時代に後鳥羽天皇の北面武士であった小池貞利、小池貞好、小池貞宗らの系統といわれている。[要出典]
小池家継は天文年間(1532年-1555年)に今城を築城した。その後、森可成の家臣となった後に森長可の家臣となった。各々は順に森蘭丸の父と兄である。
織田信長は中濃平定戦のあと猿啄城を家臣の河尻秀隆に与え、烏峰城を森可成に与えた。森可成は入城に際し烏峰城を金山城と改称したという。そのほか、久々利氏や大森城主奥村又八郎、塩河・室原の可児秀行(可児六郎左衛門秀行)、今城主の小池家継(小池刑部藤原之家継)らが織田信長に帰順したとされる[3]。
天正10年(1582年)に本能寺の変が発生すると、いままで森氏に従っていた東濃の武将は反抗するようになった。家継も同調し反抗したが、すぐに鎮圧された。その後、森長可の立ち退き命令により今城を立ち退き、帰農したといわれている[2]。
現在の今城址は可児市「山城連絡協議会」有志らにより公園として整備されている。
現代においても今城址の近隣には小池家継の氏族(と予想される小池姓の集団)が居住しており、本家・分家の関係で細部は異なるものの殆どが「梅に鶯(うぐいす)」の家紋を持っている。
脚注
編集- ^ a b “今城跡 | 戦国城跡巡り事業-可児市の乱-|可児市PRサイト”. 岐阜県可児市. 2022年3月12日閲覧。
- ^ a b “歴史番外編/道着&防具無料で月3500円から!伝統空手の武禅館多治見道場/岐阜県多治見市、伝統空手、空手、フルコンタクト空手、総合格闘技”. buzen-tajimi.sub.jp. 2025年1月8日閲覧。
- ^ “金山城跡発掘調査報告書”. 奈良文化財研究所. 2025年1月3日閲覧。
外部リンク
編集- 美濃今城 お城の旅日記
- 美濃今城 城郭写真記録 - ウェイバックマシン(2019年1月1日アーカイブ分)