小栗 政寧(おぐり まさやす、文化13年2月29日1816年3月27日) - 明治32年(1899年8月17日)は、江戸時代幕末の旗本。相馬仙胤(相馬祥胤の三男)子で小栗政長の養子。通称を右膳。官途は従五位下、長門守、のち下総守。

文久2年(1862年)5月目付より禁裏附となり、在職中に下総守となる。元治元年(1864年)2月京都東町奉行となるが、在職中は池田屋事件禁門の変が起こって京の治安が悪化した[1]。慶応元年10月在京のまま[1]勘定奉行(勝手方)となり、慶応2年7月関東郡代を兼帯、翌3年2月兼帯を免ぜられ、慶応4年(1868年)1月職を免ぜられ勤仕並寄合となる。明治2年(1869年静岡藩郡奉行兼勘定頭、会計掛権少参事となり、廃藩置県を迎え、明治14年(1881年)6月、徳川慶喜家家扶となった。

脚注

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  1. ^ a b 京都大事典p144

参考文献

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  • 『船橋市史』船橋市役所、1959年
  • 佐和隆研・奈良本辰也・吉田光邦『京都大事典』1984年