小早川盛景
小早川 盛景(こばやかわ もりかげ)は、室町時代の武将。竹原小早川氏の第10代当主。小早川弘景(初代)の嫡男。
時代 | 室町時代 |
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生誕 | 未詳 |
死没 | 未詳 |
別名 | 安芸太郎四郎[1]、入道陽元(法名)[1] |
戒名 | 心宗元公(法号)[1] |
官位 | 中務少輔[1]、安芸守[1] |
幕府 | 室町幕府 |
主君 | 足利将軍家 |
氏族 | 小早川氏 |
父母 | 父:小早川弘景 (初代)[1] |
兄弟 | 小早川盛景、小早川長菊丸 |
子 | 小早川弘景 (二代)[1]、小早川又十郎 |
生涯
編集竹原小早川氏は、父・弘景の代から大内氏と関係を深めるようになり、その当主・大内盛見より偏諱を受けて盛景と名乗る。
応永34年 (1427年)、弘景より安芸国都宇・竹原荘・梨子羽郷南方、備前国裳懸荘、美作国打穴荘などの所領を譲り受け、竹原小早川氏の家督を相続した。宝徳2年 (1450年)、室町幕府に命じられ、伊予国守護・河野教通の、河野通春討伐に加勢する。
この頃、本家・沼田小早川家では家督抗争が起こっていたが室町幕府第6代将軍・足利義教は調停に乗り出し、嘉吉元年(1441年)、盛景が沼田小早川家の家督も相続するようにとの決定を下した。
しかし、この決定を沼田小早川家が承服するわけもなく、これが一因となり、両小早川氏は反目し合い、抗争を繰り返すようになり、応仁元年(1467年)からの応仁の乱でも激しく敵対した。両家の融和がはかられるのは盛景の孫・弘平の代になってからのことである。
脚注
編集参考文献
編集- 今井尭ほか編『日本史総覧』 3(中世 2)、児玉幸多・小西四郎・竹内理三監修、新人物往来社、1984年3月。ASIN B000J78OVQ。ISBN 4404012403。 NCID BN00172373。OCLC 11260668。全国書誌番号:84023599。