小幡信高
小幡 信高(おばた のぶたか)は、戦国時代の武将。甲斐武田氏の家臣。
生誕 | 天文12年(1543年) |
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死没 | 永禄12年12月6日(1570年1月12日) |
別名 | 弾正左衛門尉、信重[1] |
主君 | 武田信玄 |
氏族 | 小幡氏 |
父母 | 父:小幡憲重 |
兄弟 | 信真、信高、昌高、昌定、信秀、武田信豊室、高田信頼室 |
子 | 信氏、信定、囚獄 |
生涯
編集上野国峯城主・小幡憲重の次男。憲重は武田氏に従う国衆であり、信高も兄・信真と共に武田氏配下となった。永禄10年(1567年)8月7日付の『下之郷起請文』の連署起請文において「小幡親類中」の筆頭として「弾正左衛門尉信高」の名がみえるのが史料上の初見である[2]。諱のうち「信」は武田氏の偏諱と考えられる[3]。
同12年(1569年)12月6日の駿河蒲原城攻略戦にて戦死したという[2]。翌13年(1570年)3月17日付で武田信玄より信高の次男で嫡子とされた弁丸(後の信定)に父の戦死の戦功が評され、知行・被官の相続を認められている[4]。