小嶋太門
略歴
編集出生名は東野一雄。大阪府中河内郡岩田町で生まれ育つ。1938年、天王高等商業学校(後の大阪市立天王寺商業高等学校)を経て1941年、関西大学法学部を繰り上げ卒業。学徒動員により1942年、第四師団輜重兵第4聯隊に応召。7月に中支派遣軍輜重兵34聯隊に配属し、以後中南支に転戦。いわゆる一号作戦に従軍する。
1946年に帰還し、大阪中央電気局(現、NTT)の通信事務員となる。1949年に小嶋十三子と養子縁組し、小嶋姓に改名。「太門」は敬愛する曽祖父からヒントを得た雅号[1]ながら、終生この名前を自称した。
1949年にユニオン・チャック工業株式会社の取締役社長に就任するも、事業は行き詰まり、不安定な貧困生活を余儀なくされる。1980年に会社解散。長年にわたって建築業事務、ホテル事務などで生計を立て、仕事の合間を縫って後藤又兵衛研究に没頭した[2]。
研究の概要
編集「大坂陣の豪将後藤又兵衛基次(其の一)(其の二)」(河内史談会『河内文化』19号 1971, 20号 1972)は、松本多喜雄『播州後藤氏の栄光: 後藤又兵衛基次の系譜』(神戸新聞総合印刷 1982)に先行し、後藤又兵衛の戦後初の本格的研究であった。とりわけ後藤又兵衛の菩提所の一つが伊予国長泉寺であるとの仮説は昭和63年11月29日の伊予市の史蹟指定の根拠となり、伊予市教育委員会による説明も行われている [4]。この仮説は「医官法橋後藤玄哲年譜」[5]など川之江後藤家の研究(→後藤基芳)と関係し、母妻を避難させた四国の地に自らの首級の埋葬を依頼したと推論した。これを出発点として小嶋は四国の後藤又兵衛伝承地を精査し、伊予国長泉寺を妥当な菩提地として仮説化したのである[6]。首級を菩提所に運ぶ遺言を残したと推測した吉村武右衞門について「吉村武右衛門供養碑」(大阪府柏原市玉手山古戦場に建立)の碑文も小嶋は執筆している[7]。小嶋の後藤又兵衛像は「最後の戦国武将」と把握するもので、下剋上を遠い過去に追いやる秩序再編に抗して、あえて「敗者に殉じた」と理解し、英雄伝説や忠臣的イメージを否定した。後藤又兵衛の人生は徳川家康によって形成されつつあった社会体制へのアンチテーゼでもあったから、庶民のヒーローになり得たとも把握したのである。後藤又兵衛は近世的な「忠臣」または「義士」でなく、いわんや大坂の陣の西軍、豊臣家側に仕えるいかなる義理もなかった。小嶋の認識では「戦国の自由」にこそ合理的な思索に長けた後藤又兵衛は殉じた[8]。民間史家であった小嶋の史料批判の甘さや欠陥は福田千鶴によって指摘されている[9]。
著作
編集脚注
編集- ^ 小嶋「東野姓について」(『家系史研究覚え書』所収)
- ^ 小島亮「小嶋太門と後藤又兵衛研究」『後藤又兵衛の研究』2014 解題
- ^ 『櫛風沐雨 ある輜重兵の記録』に学校の卒業証書類の写真が掲載されている
- ^ 全文は次である。「後藤又兵衛は播磨の国(兵庫県)の武将で、黒田孝髙・長政父子に仕えた。知勇に優れた武士であったが、黒田家を出奔した後は大阪夏の陣で豊臣方につき、慶長20(1615)年5月6日の道明寺合戦で最後を遂げた。この時、配下の吉村武左衛門(武右衛門)は、遺命により戦士した又兵衛の首を刎ね、戦後、長泉寺近くに埋めたといわれる。その墓は、現在の宮下南組の民家にあって、更に、その隣家の敷地には廟所(社)があり、住民は代々又兵衛を「後藤さん」と呼んで祀っていたという。現在、この墓と社は長泉寺境内に移されている。長泉寺は又兵衛の母方の伯父である藤岡久兵衛が僧となっていた寺で、昭和40年(1965)には子孫により境内に又兵衛の供養塔が建てられた。長泉寺では、昭和35年から毎年、新暦5月6日(近年は新暦5月5日)に法要が営まれている。」 なお市観光公式WEBサイト「伊予いろいろ」 https://iyokankou.jp/spot/spot-648/
- ^ 小嶋『後藤又兵衛とその子』、『後藤又兵衛の研究』に再録
- ^ 小嶋「後藤又兵衛基次菩提所の由来」(同前)はその史料的根拠を示した論稿である
- ^ 小嶋『後藤又兵衛とその子』に碑文収録 柏原市ホームページ「小松原の戦いこぼればなし(8)」http://www.city.kashiwara.osaka.jp/docs/2015033100052/?doc_id=2963 さらに藤井寺市観光協会ウェブサイト https://www.fujiidera-kanko.info/volunteer/modelkosu15.html
- ^ 小嶋「後藤又兵衛基次逸話集」(『後藤又兵衛とその子』、『後藤又兵衛の研究』に再録)
- ^ 福田千鶴『後藤又兵衛- 大坂の陣で散った戦国武将』中公新書 2016