小山美登四
小山 美登四(こやま みとし、1888年(明治21年)10月[1] - 1959年(昭和34年)[2])は日本の銀行家・実業家・弁護士・政治家である。初代台湾高雄州協議会の会員。台湾銀行本店支配人代理、三蟠鉄道・昭和護謨監査役、岡山県議会議員と岡山市議会議員を務めた。
こやま みとし 小山 美登四 | |
---|---|
生誕 |
1888年10月 日本・岡山県浅口郡船穂村 (現・倉敷市船穂町) |
死没 |
1959年(70歳没) 日本・岡山県岡山市上西川 |
国籍 | 日本 |
出身校 | 東京帝国大学法学部政治学科 |
職業 | 銀行家・実業家・弁護士・政治家 |
団体 | 台湾銀行関係者 |
肩書き |
台湾高雄州協議会員 台湾銀行本店支配人代理 岡山県議会議員 岡山市議会議員 |
子供 |
祐二(長男) 菊子(長女) |
親 |
|
家族 |
頼一郎(兄) まもり(姉) |
経歴
編集生い立ち
編集1888年(明治21年)、岡山県浅口郡船穂村(現:倉敷市船穂町)の小山四郎兵衛秀男の次男として出生[2]。旧制高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)を経て、1906年(明治39年)第六高等学校に進学[1]、その後、1909年(明治42年)6月に同校卒業[3]、同年に東京帝国大学法科大学政治学科[4]へ進学した[5]。1913年(大正2年)7月、24歳で同大学を卒業し[6]、1915年(大正4年)台湾銀行へ入行した。
大学卒業後
編集台湾銀行は1899年(明治42年)に営業を開始し、銀行券の発行を有する台湾最大の商業銀行として発展した。台湾島内の産業資源開発に資金を提供し、南部中国・南洋方面での日本人の活動を援助した。1917年(大正6年)小山は若干29歳で打狗(読み:ターカウ、現在の台湾高雄市)支店の支店長兼支配人となった[7]。台湾銀行打狗支店は南部中国との経済関係をつなぐ目的で設置され、対岸の厦門(アモイ)支店同様1900年(明治43年)に開設された[8]。1920年(大正9年)32歳のときには、台湾銀行本店支配人代理となった[7]。
台湾高雄州協議会員として
編集1920年10月、日本統治下の台湾では、州制・市制・街庄制が施行された。それに伴い打狗周辺は、新たに高雄州となり、台湾各地で協議会員が任命され、その第1回高雄州協議会員の18人の中に小山がいた。この協議会は日本から来た人物が半数を占め、小山を含め、その多くが高雄街に住んでいた。
日本人協議会員の職業を見ると、永田綱明など3人は現職の国家公務員で、協議内容の調整を担当していたと考えられる。他の日本人協議会員は自営業者や会社・銀行勤務者で、特に南部中国・南洋関連の事業を行う企業に従事している人が多いことからも、高雄はこれらの中継地点として重要な場所であった[8]。そして、これらの企業活動を助けるために、台湾銀行打狗支店長の小山に高雄州協議会員への参加を求めた。
その後、小山は台湾銀行の頭取であった中川小十郎と方向性の違いから揉めたため1922年(大正11年)3月に同行を退職し、帰郷した[9]。
岡山へ帰郷後
編集帰郷後は、岡山市に在住し弁護士となり、弁護士事務所を開いた。37歳になった1926年(大正15年)には、岡山県議会議員選挙へ立候補し当選[7]。そして、38歳になった1927年(昭和2年)6月より三蟠鉄道監査役となり、1931年(昭和6年)8月に三蟠鉄道が解散するまでつとめた[10]。1929年(昭和4年)には、県議会議員の辞職に伴い、岡山市会議員選挙へ立候補し当選[7]。県政市政に活躍した。1937年(昭和12年)48歳のとき、昭和護謨(現:昭和ホールディングス)の監査役になった。
1959年(昭和34年)70歳で逝去。趣味は囲碁であった[7]。
脚注
編集[脚注の使い方]
- ^ a b 第六高等学校一覧 明治39-40年 p.211 小山美登四 高梁
- ^ a b “小山家浅口郡舟尾村”. gos.but.jp. 2024年12月6日閲覧。
- ^ 第六高等学校一覧 明治43-44年 p.48 小山美登四 第一部甲類卒業
- ^ 東京帝国大学一覧 明治44-45年 p23 小山美登四
- ^ 第六高等学校一覧 自大正8至9年 p.170 東大法学部 小山美登四
- ^ 東京帝国大学一覧 從大正2年 至大正3年 p.115 法学士政治学科卒業 小山美登四
- ^ a b c d e 岡山県行幸記念誌 p.93 岡山県行幸記念誌刊行会 昭和9年
- ^ a b 1920年代台湾における高雄州設置と中等学校誘致問題 ― 高雄・鳳山・屏東各街の日台人の動向に着目して ― (藤井 康 著)p.134-136
- ^ 岡山県興信録 第1輯, 出版者 岡山興信所,出版年 大正13
- ^ 三蟠軽便鉄道の役員構成と素顔、関係会社役員