小山政種
小山 政種(おやま まさたね)は、安土桃山時代の小山氏当主。
小山政種(森戸果香筆) | |
時代 | 安土桃山時代 |
生誕 | 永禄11年(1568年) |
死没 | 天正9年(1581年)頃 |
改名 | 伊勢千代丸、政種 |
氏族 | 小山氏 |
父母 | 父:小山秀綱、母:成田氏長の娘 |
兄弟 | 高綱、秀広、政種、女子(岡本禅哲室) |
生涯
編集小山秀綱の子として生まれる。幼名は伊勢千代丸[1]。母は成田氏長の娘。兄(異母兄か?)に高綱と秀広[2][3]、姉妹に岡本禅哲(佐竹氏家臣)室がいる[4]。
天正3年(1575年)2月半ば、小山氏は、北条氏によって祇園城を攻略された[5](別説あり。後述)。秀綱・政種父子は、佐竹義重を頼って常陸国に落ちのび、同国那珂郡古内宿(現在の茨城県城里町)に身を置いた[5][4]。佐竹氏を頼ったのは、同氏の重臣・岡本禅哲に秀綱の娘が嫁いでいたことも理由に挙げられる[4]。岡本氏は、小山氏の一族だったとされている[4]。
天正5年(1577年)8月、伊勢神宮に祇園帰城の願をかけている[6][7]。天正8年(1580年)頃、元服し、政種と名乗った[8]。この時期に小山家当主を継いだと推測される[8]。
同年末から天正9年(1581年)1月か2月頃、常陸国で没した(「常陸日月牌過去帳」)[6]。享年14(「小山系図」)[6]。このため、父・秀綱が小山氏当主に復帰したと推測される[6]。
祇園城開城の時期について
編集従来、北条氏によって祇園城を攻略されたのは天正3年(1575年)2月のこととされてきた[9]。近年、その時期を同4年(1576年)12月とする説が提起されている[10]。
その根拠として、天正3年3月から6月にかけて、父・秀綱が複数の家臣に対し、土地を宛てがったり、軍功を賞して官途や受領名を与えたりしており、これらが事実とすれば、開城後にこうしたことを行うとは考えにくいことが挙げられる[10]。
松本一夫は、北条氏政の書状の内容から、開城の時期を天正4年12月下旬頃ではないかとしている(なお、この書状の時期について天正3年12月とみる研究者もいるという)[10]。