小山忠雄
日本の教育者
小山 忠雄(おやま[1] / こやま[2] ただお、慶応3年2月15日[3](1867年3月20日) - 昭和17年(1942年)2月16日[4])は、日本の教育者。号は自得。
経歴
編集出羽国平鹿郡横手(現在の秋田県横手市)出身[1]。東京に遊学して、共立学校で英学・漢学を学んだ[1]。1889年(明治22年)、秋田県師範学校を卒業して、小学校訓導を務めた[1]。その後、東京高等師範学校文科に入り、1893年(明治26年)に卒業した[1]。秋田県師範学校教諭、同附属小学校主事、青森県師範学校教諭を務めた[3]。1902年(明治35年)、秋田県立横手中学校校長に就任し、翌年に秋田県立大館中学校校長に転じた[3]。1907年(明治40年)、秋田師範学校校長となり、1912年(明治45年)に北海道札幌師範学校校長に転じた[3]。1920年(大正9年)から関東庁中学校校長を務め、1922年(大正11年)に退官した[2]。その後、北海道庁嘱託として、北海道自治講習所所長・北海道産業講習所所長を務めた[2]。
著書
編集- 『理論実験 読書作文教授法』(東海林書店、1898年)
- 『新説学校管理法』(同文館、1899年)
- 『新教授学』(同文館、1901年)
- 『修正学校管理法』(同文館、1903年) 槙山栄次と共著
- 『我観随筆』(小山忠雄先生還暦記念図書刊行会、1927年)
- 『晴嵐』(秋田県教育会、1929年)
- 『教育勅語と国民精神』((北海出版社、1931年)
脚注
編集参考文献
編集- 金子信尚編『北海道人名辞書』北海民論社、1923年。
- 鈴木源十郎編『札幌之人』1915年。
- 金子郡平・高野隆之編『北海道人名辞書』北海道人名辞書編纂事務所、1914年。
- 秋田魁新報社 編『秋田人名大事典』(第2版)秋田魁新報社、2000年。
公職 | ||
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先代 勝浦鞆雄 |
旅順中学校長 1920年 - 1922年 |
次代 藤井専隨 |
先代 北海道師範学校長 星菊太 |
北海道札幌師範学校長 1914年 - 1920年 北海道師範学校長 1912年 - 1914年 |
次代 江口照造 |
先代 保田銓次郎 |
秋田県師範学校長 1907年 - 1912年 |
次代 山本宗太郎 |
先代 (新設) |
秋田県女子師範学校長 1909年 |
次代 樋泉慶次郎 |
先代 三宅直温 |
秋田県立大館中学校長 1903年 - 1907年 |
次代 遣沢恒猪 |
先代 関藤成緒 |
秋田県立横手中学校長 1902年 - 1903年 |
次代 加賀谷定治 |