小山 九一(こやま くいち、1885年明治18年〉1月10日 - 1961年昭和36年〉8月18日)は、日本実業家昭和石油第2代社長、元住友海上火災保険専務取締役。

略歴

編集

新潟県新潟区古町通5番町(現 新潟市中央区古町通5番町)出身[1][2]

1898年明治31年)3月に新潟高等小学校を卒業、1903年(明治36年)3月に新潟中学校を卒業、1904年(明治37年)7月に東京高等商業学校予科を卒業、1907年(明治40年)7月に東京高等商業学校本科を卒業[3][4]

1907年(明治40年)8月に住友本店に入社、主計課に勤務、1916年大正5年)3月に住友東京販売店支配人に就任[5]1919年(大正8年)3月に住友伸銅所副支配人に就任[6]1925年(大正14年)2月に住友合資会社伸銅所支配人に就任[7]1927年昭和2年)4月に住友合資会社製銅販売店支配人に就任[8]1928年(昭和3年)7月に住友別子鉱山支配人兼大阪支店長に就任[9][10]

1930年(昭和5年)3月に扶桑海上火災保険[注 1]専務取締役に就任[11]1940年(昭和15年)4月に住友海上火災保険[注 1]専務取締役を退任[12]、11月に新潟臨港開発専務取締役に就任[4][13][14][15][注 2]

1942年(昭和17年)7月に昭和石油専務取締役に就任[18][19]1946年(昭和21年)5月に昭和石油第2代取締役社長に就任[18][20]1953年(昭和28年)5月に昭和石油取締役社長を退任[18][21]、6月に昭和石油相談役に就任[4][13]

金升酒造取締役、日本サルヴェージ取締役、新潟海陸運送取締役、新潟港運監査役・社長、新潟ホテル社長、新潟港運送専務取締役、大栄油槽取締役なども務めた[2][3][22]

1961年(昭和36年)8月18日午前10時30分に日本専売公社東京病院心筋梗塞症のため死去、葬儀・告別式は東京都中央区築地築地本願寺で執り行われた[23]

世界恐慌で経営が困難に直面した扶桑海上火災保険を全面的な社内改革で再建し、住友海上火災保険の礎を築いた[24]。また、戦後の苦しい時期に、「企業繁栄の基礎は人の和にある」と常に説き、昭和石油の復興と発展の礎を築いた[18][25]

友人

編集

親戚

編集
  • 高橋耘平 - 義父、妻の父、金升酒造3代目社長。
  • 高橋廣胖 - 義兄、妻の長姉の夫、大家、元金升酒造取締役。
  • 高橋國太郎 - 義甥、高橋廣胖の長男、港製菓創業者・初代社長。
  • 伊藤丑二郎 - 義兄、妻の次姉の夫、伊藤酒造(廃業)初代社長。
  • 千明康 - 義甥、義姪の夫、伊藤丑二郎の長女の夫、実業家馬主千明牧場2代目代表。
  • 安藤文平 - 義弟、妻の長妹の夫、第17代新潟市議会議長。
  • 高澤徳二郎 - 義弟、妻の次妹の夫、菊水酒造3代目社長。
  • 大西鐵之祐 - 義甥、義姪の夫、高澤徳二郎の長女の夫、元ラグビー日本代表監督、早稲田大学名誉教授。小山九一の次男が早稲田大学で大西鐵之祐と友人だった縁で義姪と結婚した[26]

脚注

編集

注釈

編集
  1. ^ a b 1940年昭和15年)4月に扶桑海上火災保険から住友海上火災保険に改称。
  2. ^ 1946年(昭和21年)11月に専務取締役を退任[14][16]1949年(昭和24年)11月に取締役に就任[14][16]1960年(昭和35年)5月に取締役を退任[14][17]

出典

編集
  1. ^ a b c 青山同窓会會報』第40号、6面。
  2. ^ a b 第十五版 大衆人事録』こ6頁。
  3. ^ a b 越佐名士錄』794頁。
  4. ^ a b c 新潟県大百科事典 上巻』548頁。『新潟県大百科事典』復刻デスク版、766頁。
  5. ^ 住友史料館報』第27号、164・174-175頁。
  6. ^ 住友軽金属年表 平成元年版』23頁。
  7. ^ 住友軽金属年表 平成元年版』38頁。
  8. ^ 住友史料館報』第31号、117-118頁。
  9. ^ 住友史料館報』第31号、128頁。
  10. ^ 日本人物情報大系 40 企業家編 10』35・227頁。『ドキュメント 人と業績大事典 10 こふ-さつ』27頁。
  11. ^ 住友海上の100年 チャレンジの軌跡』83・107・296頁。『住友海上火災保険株式会社百年史』201頁。
  12. ^ 住友海上の100年 チャレンジの軌跡』109・298頁。
  13. ^ a b 越佐人物誌 上巻』377頁。
  14. ^ a b c d 「役員変遷一覧表」『創業六十年史』付録。
  15. ^ 創業六十年史』278・332頁。
  16. ^ a b 創業六十年史』332頁。
  17. ^ 創業六十年史』355頁。
  18. ^ a b c d 住友海上の100年 チャレンジの軌跡』109頁。
  19. ^ 昭和石油三十年史』48頁。
  20. ^ 昭和石油三十年史』82・124・375頁。
  21. ^ 昭和石油三十年史』122・381頁。
  22. ^ 創業六十年史』303・304・306・319・623頁。
  23. ^ 朝日𣂺聞』1961年8月19日付朝刊、13面。
  24. ^ 住友海上の100年 チャレンジの軌跡』83-84・99・107-109頁。
  25. ^ 昭和石油三十年史』124頁。
  26. ^ 新潟日報』2019年11月12日付朝刊、16面。

参考文献

編集
  • 「小山九一」『越佐名士錄』794頁、坂井新三郎[著]、越佐名士録刊行会、1942年。
  • 「小山九一」『越佐人物誌 上巻』377頁、牧田利平[編]、野島出版、1972年。
  • 「小山九一」『新潟県大百科事典 上巻』548頁、松崎清[著]、新潟日報事業社[編]、新潟日報事業社、1977年。
  • 「小山九一」『新潟県大百科事典』復刻デスク版、766頁、松崎清[著]、新潟日報事業社出版部[編]、新潟日報事業社出版部、1984年。
  • 「小山九一」『日本人物情報大系 40 企業家編 10』35-36・227頁、筒井芳太郎・池田さぶろ[著]、芳賀登杉本つとむ・森睦彦・阿津坂林太郎・丸山信・大久保久雄[編]、皓星社、2000年。
  • 「小山九一」『ドキュメント 人と業績大事典 10 こふ-さつ』27頁、ドキュメント 人と業績大事典編集委員会[編]、ナダ出版センター、2000年。
  • 「小山九一」『第十五版 大衆人事録』こ6頁、帝国秘密探偵社[編]、帝国秘密探偵社、1952年。
  • 「小山九一氏」『朝日𣂺聞』1961年8月19日付朝刊、13面、朝日新聞社、1961年。
  • 「ラグビー界 陰で支え続け 故大西鉄之祐早大監督 妻アヤさん(新発田出身) 4月に死去 学生らに慕われた「おかみ」 エンブレムのデザインも」『新潟日報』2019年11月12日付朝刊、16面、新潟日報社、2019年。
  • 画人笠原軔とその父漁村(六) (PDF) 」『青山同窓会會報』第40号、6面、小林智明[著]、青山同窓会、1985年。
  • 『住友史料館報』第27号、住友史料館[編]、住友史料館、1996年。
  • 『住友史料館報』第31号、住友史料館[編]、住友史料館、2000年。
  • 『住友軽金属年表 平成元年版』住友軽金属工業[編]、住友軽金属工業、1989年。
  • 『住友海上の100年 チャレンジの軌跡』日本経営史研究所・住友海上火災保険株式会社 社史編集室[編]、住友海上火災保険株式会社、1993年。
  • 『住友海上火災保険株式会社百年史』日本経営史研究所・住友海上火災保険株式会社 社史編集室[編]、住友海上火災保険株式会社、1995年。
  • 『創業六十年史』新潟臨港海陸運送[編]、新潟臨港海陸運送、1966年。
  • 『昭和石油三十年史』昭和石油[編]、昭和石油、1974年。

関連文献

編集
  • 「父小山九一儀」『朝日𣂺聞』1961年8月20日付朝刊、11面、朝日新聞社、1961年。
  • 「弊社前社長小山九一儀」『朝日𣂺聞』1961年8月20日付朝刊、11面、朝日新聞社、1961年。
  • 「弊社前取締役小山九一儀」『朝日𣂺聞』1961年8月20日付朝刊、11面、朝日新聞社、1961年。
  • 「弊社元専務取締役小山九一儀」『朝日𣂺聞』1961年8月20日付朝刊、11面、朝日新聞社、1961年。
先代
長崎英造
昭和石油社長
第2代:1946年 - 1953年
次代
早山洪二郎