小山久之助
小山 久之助(こやま ひさのすけ、安政6年2月5日[1](1859年3月9日) - 明治34年(1901年)10月3日)は、日本の政治家。衆議院議員。号は騁斉。
来歴
編集信濃国佐久郡小諸城下与良町に小山敬義の次男として生まれる。小諸藩士の山本杏園に漢学を学び、明治5年(1872年)、私塾を開いて「孟子」を論ずる。同11年(1878年)新潟県師範学校に入学したが中退し、上京して興法学舎や、 中江兆民の仏学塾に学び、幸徳秋水とともに両高弟と称された。明治15年(1882年)、自由民権の雑誌「政理叢談」の発刊に加わり、欧米の憲法論を紹介した。
明治20年(1887年)の保安条例で兆民らが「皇居三里外」に追放され、仏学塾が解散したため、後藤象二郎や大石正巳らと全国を遊説した。翌明治21年(1888年)大阪で「東雲新聞」を発刊し、国会開設運動を論じた。明治31年(1898年)第6回衆議院議員総選挙に自由党から当選したが、板垣退助と決別し脱党し、改進党に入るが離党。議会で軍拡の地租増徴法案が審議された際、星亨の買収を暴露した。兆民の遺稿『一年有半』の出版に尽力したが、病没した。
親族
編集- 次男 小山亮(衆議院議員)
参考文献
編集- 『千曲川』[2]