宸翰(しんかん)は、天皇自筆の文書のこと。宸筆(しんぴつ)、親翰(しんかん)ともいう。鎌倉時代以降、室町時代までの宸翰の書風を特に宸翰様と呼ぶ。中世以前の天皇の真跡で現存するものは数が少なく、国宝重要文化財に指定されているものが多い。

『紙本墨書伏見天皇宸翰御願文(正和二年二月九日)』(重要文化財京都国立博物館蔵)末尾。上代様の宸翰。「書聖」伏見天皇の作品の中でも白眉とされる。

鎌倉時代末期の伏見天皇を筆頭に、能書家の天皇が多かったため、日本の書道史上重要な作品も多い。著名な能書帝には伏見の他、「三筆」の一人に数えられる嵯峨天皇、伏見と共に宸翰様を代表する後醍醐天皇(およびその父の後宇多天皇)、後柏原院流を開いた後柏原天皇(およびその息子の後奈良天皇)などがいる。

国宝に指定されている宸翰

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聖武天皇宸翰

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雑集(正倉院宝物)

聖武天皇奈良時代能書として光明皇后とともに有名であり、聖武天皇の宸翰と伝えられる書には以下のものがある。

雑集(ざっしゅう)正倉院宝物)
聖武天皇の七七忌(四十九日)に光明皇后は先帝の冥福を祈って、珍宝、遺蔵品をまとめて東大寺大仏に献納した。この一巻もその一つで、『東大寺献物帳』所載の品である。本文は中国六朝仏教に関する詩文140数首を抄録したもので、白麻(はくま)素紙に楷書体で毎行18字、天地に横罫があり、全長30張(27×2135cm)の長巻である。奥書に「天平三年九月八日写了」とあり、天皇31歳の書である。書風は王羲之の『楽毅論』(がっきろん)に通じ、褚遂良風とも言われる。なお、抄録された詩文は、いずれも中国ではすでに失われた詩文で、文学及び仏教資料的価値も高い。聖武天皇の自筆として確実なものは、他に静岡・平田寺の『聖武天皇勅書』(国宝)中の「勅」の1字のみである。
大聖武(東大寺ほか蔵)
荼毘紙(真弓紙)に書かれた奈良時代の大文字の写経である。古来聖武天皇の筆と伝承され、字粒が大きいことから「大聖武」と称して珍重されるが、上記「雑集」とは異筆である。東大寺の戒壇院に伝来したもので、東大寺、東京国立博物館、前田育徳会、白鶴美術館に巻子本として所蔵されるほか、古筆手鑑などに断簡がみられる。

嵯峨天皇宸翰

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『哭澄上人詩』(部分)嵯峨天皇宸翰

嵯峨天皇は、空海橘逸勢とともに三筆と称される能書であり、嵯峨天皇の宸翰と伝えられるには以下のものがある。

光定戒牒(こうじょうかいじょう)(延暦寺蔵)
最澄の弟子の光定が、弘仁14年(823年)4月14日、延暦寺で菩薩戒を受けた時、朝廷から給せられる通知を執筆したものである。宸翰と断定できるのは、光定が撰した伝述一心戒文の中に「厳筆徴僧が戒牒を書し給ひ、恩勅之を賜ふ」と記されていることによる。楷行草を交えた荘重な書風で、空海に学んだものと推定される。
哭澄上人詩(こくちょうしょうにんし)(個人蔵、青蓮院伝来)[3]
弘仁13年(822年)最澄の入寂を悲しんだ嵯峨天皇の五言排律(12句60字)の詩で、宸翰と伝えられるが、自筆原本でなく写しであるとする説もある。草書体で気品に富み、大師風(空海の書風)が認められる。
李嶠百詠断簡(りきょうひゃくえいだんかん)(御物)
の詩人李嶠の百二十詩を行書体で書写した断簡(だんかん、切れ切れになった文書)である。用筆は変化に富み、純粋な唐風の書である。古来嵯峨天皇宸翰と伝えるが、現代の書道史では異筆とみなされている。

ギャラリー

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脚注

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  1. ^ 後鳥羽天皇宸翰御手印置文
  2. ^ 国宝 後鳥羽天皇宸翰御手印置文 
  3. ^ この作品は1978年に東京国立博物館で開催された「特別展 日本の書」に出展された。

参考文献

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関連文献

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  • 『宸翰英華』全4冊(図版・解説篇)、復刻・思文閣出版、1988年。帝国学士院編、元版・1944年
  • 『宸翰英華 別篇 北朝』全2冊(図版・解説篇)、思文閣出版、1992年。宸翰英華別篇編修会編
  • 京都国立博物館 編『宸翰 天皇の書―御手が織りなす至高の美―』京都国立博物館、2012年。 
  • 小松茂美『天皇の書』文藝春秋〈文春新書〉、2006年。ISBN 978-4166604999 

関連項目

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