宸翰
天皇自筆の文書
宸翰(しんかん)は、天皇自筆の文書のこと。宸筆(しんぴつ)、親翰(しんかん)ともいう。鎌倉時代以降、室町時代までの宸翰の書風を特に宸翰様と呼ぶ。中世以前の天皇の真跡で現存するものは数が少なく、国宝や重要文化財に指定されているものが多い。
鎌倉時代末期の伏見天皇を筆頭に、能書家の天皇が多かったため、日本の書道史上重要な作品も多い。著名な能書帝には伏見の他、「三筆」の一人に数えられる嵯峨天皇、伏見と共に宸翰様を代表する後醍醐天皇(およびその父の後宇多天皇)、後柏原院流を開いた後柏原天皇(およびその息子の後奈良天皇)などがいる。
国宝に指定されている宸翰
編集- 嵯峨天皇宸翰光定戒牒(延暦寺)
- 高倉天皇宸翰消息(仁和寺)
- 後鳥羽天皇宸翰御手印置文(水無瀬神宮)[1][2]。
- 後嵯峨天皇宸翰消息(仁和寺)
- 亀山天皇宸翰禅林寺御祈願文案(南禅寺)
- 後宇多天皇宸翰弘法大師伝(大覚寺)
- 後宇多天皇宸翰東寺興隆条々事書御添状(東寺)
- 後宇多天皇宸翰御手印遺告(大覚寺)
- 後宇多天皇宸翰当流紹隆教誡(醍醐寺)
- 後醍醐天皇宸翰四天王寺縁起(四天王寺)
- 後醍醐天皇置文(大徳寺)
- 後醍醐天皇宸翰天長印信(蠟牋)(醍醐寺)
- 三朝宸翰(前田育徳会)(花園天皇、後醍醐天皇、伏見天皇宸翰を含む)
- 熊野懐紙(西本願寺)(後鳥羽天皇宸翰を含む)
- 熊野懐紙(陽明文庫)(後鳥羽天皇宸翰を含む)
聖武天皇宸翰
編集聖武天皇は奈良時代の能書として光明皇后とともに有名であり、聖武天皇の宸翰と伝えられる書には以下のものがある。
- 雑集(ざっしゅう)(正倉院宝物)
- 聖武天皇の七七忌(四十九日)に光明皇后は先帝の冥福を祈って、珍宝、遺蔵品をまとめて東大寺大仏に献納した。この一巻もその一つで、『東大寺献物帳』所載の品である。本文は中国六朝隋唐の仏教に関する詩文140数首を抄録したもので、白麻(はくま)素紙に楷書体で毎行18字、天地に横罫があり、全長30張(27×2135cm)の長巻である。奥書に「天平三年九月八日写了」とあり、天皇31歳の書である。書風は王羲之の『楽毅論』(がっきろん)に通じ、褚遂良風とも言われる。なお、抄録された詩文は、いずれも中国ではすでに失われた詩文で、文学及び仏教資料的価値も高い。聖武天皇の自筆として確実なものは、他に静岡・平田寺の『聖武天皇勅書』(国宝)中の「勅」の1字のみである。
- 大聖武(東大寺ほか蔵)
- 荼毘紙(真弓紙)に書かれた奈良時代の大文字の写経である。古来聖武天皇の筆と伝承され、字粒が大きいことから「大聖武」と称して珍重されるが、上記「雑集」とは異筆である。東大寺の戒壇院に伝来したもので、東大寺、東京国立博物館、前田育徳会、白鶴美術館に巻子本として所蔵されるほか、古筆手鑑などに断簡がみられる。
嵯峨天皇宸翰
編集嵯峨天皇は、空海・橘逸勢とともに三筆と称される能書であり、嵯峨天皇の宸翰と伝えられる書には以下のものがある。
- 光定戒牒(こうじょうかいじょう)(延暦寺蔵)
- 最澄の弟子の光定が、弘仁14年(823年)4月14日、延暦寺で菩薩戒を受けた時、朝廷から給せられる通知を執筆したものである。宸翰と断定できるのは、光定が撰した伝述一心戒文の中に「厳筆徴僧が戒牒を書し給ひ、恩勅之を賜ふ」と記されていることによる。楷行草を交えた荘重な書風で、空海に学んだものと推定される。
- 哭澄上人詩(こくちょうしょうにんし)(個人蔵、青蓮院伝来)[3]
- 弘仁13年(822年)最澄の入寂を悲しんだ嵯峨天皇の五言排律(12句60字)の詩で、宸翰と伝えられるが、自筆原本でなく写しであるとする説もある。草書体で気品に富み、大師風(空海の書風)が認められる。
- 李嶠百詠断簡(りきょうひゃくえいだんかん)(御物)
- 唐の詩人李嶠の百二十詩を行書体で書写した断簡(だんかん、切れ切れになった文書)である。用筆は変化に富み、純粋な唐風の書である。古来嵯峨天皇宸翰と伝えるが、現代の書道史では異筆とみなされている。
ギャラリー
編集-
聖武天皇勅書(「勅」字が宸筆)(静岡・平田寺)
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嵯峨天皇宸翰 光定戒牒(延暦寺)
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高倉天皇宸翰消息(仁和寺)
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後嵯峨天皇宸翰消息(仁和寺)
脚注
編集- ^ 後鳥羽天皇宸翰御手印置文
- ^ 国宝 後鳥羽天皇宸翰御手印置文
- ^ この作品は1978年に東京国立博物館で開催された「特別展 日本の書」に出展された。
参考文献
編集- 『日本と中国の書史』 - (社)日本書作家協会発行 木村卜堂著 - 1971年