宮本悦也
宮本 悦也(みやもと えつや、1931年(昭和6年)- )は、日本の実業家である。電通経済関西支社長を経て、企業向けコンサルタントとして活動し、東京アンドパリ社社長、流行学研究所社長となる。社会現象を分析、研究して流行学(英:modology)を創始した[1]。東京都出身。
みやもと えつや 宮本 悦也 | |
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生誕 |
1931年??月??日 日本・東京府 |
国籍 | 日本 |
出身校 |
旧制岡山県立高梁中学→ (現:岡山県立高梁高等学校) 早稲田大学第二文学部→ 早稲田大学大学院文学研究科 |
職業 | 実業家・流行予測家 |
著名な実績 | 流行学の創始 |
肩書き |
東京アンドパリ社社長 流行学研究所社長 |
経歴
編集生い立ち
編集1931年(昭和6年)東京府で生れる[2]。東京府立芝愛宕尋常小学校を経て、1944年(昭和19年)旧制東京府立二十二中学(現:東京都立六本木高等学校)へ入学する。その後、東京空襲に遭い岡山県へ疎開する[3]。1945年(昭和20年)旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ2年次転入する。そのまま終戦を迎え、1948年(昭和23年)同校を卒業した[3]。
東京へ帰郷後
編集卒業後、直ぐに日本電気へ入社し、三田本社へ配属となった。日本電気で勤務した後、電通経済へ転職し(現:日刊電化経済通信社)1958年(昭和33年)に関西支社長となる。その後、支社長を辞めて家電・通信の予測コンサルタントとなり、1960年(昭和35年)松下電器へ入社する。松下通信工業へ出向し、有名なケイタイ・ポケベル・音声合成・トラフィックレコーダー等々の需要を予想し商品化に成功する[3]。勤務する傍ら、1964年(昭和39年)早稲田大学第二文学部演劇コース(現:文学部演劇映像コース)へ入学する。1968年同校を卒業し、そのまま早稲田大学大学院文学研究科芸術学科へ入学し、1970年(昭和45年)宮本が39歳のときに早稲田大学大学院を卒業する[2]。
1969年(昭和44年)大学院在学中に東京アンドパリ社(婦人服飾商品の流行予測)社長となり、フランスSPV、Tobeレポートなどを日本に紹介する。1974年(昭和49年)には、流行学研究所社長となった。同社では流行の実験や製造販売を行う。1982年(昭和57年)にはトヨタ自動車のデザイン指導、1986年(昭和61年)日産自動車のデザイン指導を行った。1987年には、自身の著書である「外来パラダイムからの脱出」を執筆するためにハワイへ移住する[2]。
主な著書
編集- 『月刊 流行学研究 MODOLOGY』, 宮本悦也, 東京アンドパリ社
- 『松下電器—成長はパニックで生き残れるか』, 宮本悦也, 三一書房, 1971年
- 『パニック学入門 : 残像を殲滅せよ!』, 宮本悦也, 時事通信社新書版, 1971年
- 『70年代のファッションを予測する』, 宮本悦也, 繊維マーケティング・センター, 1971年
- 『流行学「文化」にも法則がある』, 宮本悦也, ダイヤモンド社, 1972年
- 『商品の流行学 -経済周期律の発見-』, 宮本悦也, ダイヤモンド社, 1976年
- 『情報の流行学—意外性の構造』, 宮本悦也, ダイヤモンド社, 1977年
- 『外来パラダイムからの脱出―色とデザインの予測理論の完成』, 宮本悦也, 1992年[2]
- 『私蔵版・流行サイクル時刻表』, 宮本悦也, 1992年
- 宮本悦也の流行学『メガヒット(大流行)するデザイン(形)―不況を乗り切る最強のビジネス書』, 本の泉社, 2003年[3]
- 『新・自動車の流行学』, 宮本悦也, パンドラ文庫, 2010年[1]
出典
編集- ^ a b c “〈新刊紹介〉「新・自動車の流行学」宮本悦也著|クルマ文化・モータースポーツ|紙面記事”. 日刊自動車新聞 電子版. 2025年1月13日閲覧。
- ^ a b c d “外来パラダイムからの脱出―色とデザインの予測理論の完成”. 紀伊國屋書店ウェブストア|オンライン書店|本、雑誌の通販、電子書籍ストア. 2025年1月13日閲覧。
- ^ a b c d “宮本悦也の流行学シリーズ メガヒット(大流行)するデザイン(形)―不況を乗り切る最強のビジネス書”. 紀伊國屋書店ウェブストア|オンライン書店|本、雑誌の通販、電子書籍ストア. 2025年1月13日閲覧。