宮崎 隆親(みやざき たかちか)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将大崎氏の家臣。陸奥国加美郡宮崎城主。

 
宮崎 隆親
時代 安土桃山時代 - 江戸時代初期
生誕 不明
死没 慶長16年8月16日1611年9月22日
改名 宮崎隆親→笠原織部
戒名 自性院忠岩雄義大居士
官位 民部少輔
主君 大崎義隆楯岡満茂
氏族 宮崎氏(笠原氏)
父母 父:宮崎隆治
隆元
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略歴

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出自

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『笠原系図』によると、宮崎氏木曾義仲の末裔という笠原重広を祖とする。延元2年(1337年)、奥州に入った重広は初め志田郡師山城を居城とするが、延元4年(1339年)に宮崎城を築き、以来宮崎氏は160余年の長きに亘って加美郡を統治した[1]

生涯

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宮崎隆治の子として誕生する。大崎義隆に仕え、侍大将を務めた[2]

天正16年(1588年)の大崎合戦では中新田城に籠城して活躍し[1]天正18年(1590年)の葛西大崎一揆では総大将を務め、中新田城・宮崎城に籠もって伊達政宗軍と戦った[2]

宮崎城落城後は子・隆元や道城蔵人・上ノ沢讃岐・今野与惣右衛門らとともに仙北地方に逃れるが、後に山形の村山に移り、最上氏の重臣・楯岡満茂に仕え、名を笠原織部と改めた[1]

慶長16年(1611年)8月16日、死去。戒名は自性院忠岩雄義大居士[3]

脚注

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  1. ^ a b c 山本大小和田哲男『戦国大名家臣団事典 東国編』新人物往来社、1981年8月10日、70頁。ISBN 978-4404010728 
  2. ^ a b 阿部猛西村圭子『戦国人名事典 コンパクト版』新人物往来社、1990年9月10日、754頁。ISBN 9784404017529 
  3. ^ 五十嵐清蔵 編『北村山郡史 上巻』北村山郡、1923年、253頁。