宮崎泰景
宮崎 泰景(みやざき やすかげ、1523年(大永3年) - 1606年2月15日(慶長11年1月9日)は、戦国時代の武将。
生涯
編集武田信玄及び武田勝頼に仕え、勝頼没落ののちは信濃国伊那郡座光寺村に潜居する。1588年(天正16年)12月5日、駿府に召され、東照宮(徳川家康)に御目見えし、御旗下に列し、信濃国座光寺の所領を安堵される。
1590年(天正18年)小田原征伐の陣に従い、この年関東御入国の時、嫡男宮崎泰重が武蔵国多摩郡車返村(現在の東京都府中市)で所領280石を賜る。1591年(天正19年)の九戸政実の乱にも従い、岩手沢城に赴いた[1]。
1606年(慶長11年)1月9日死去。享年84。法名玄要。葬地は武蔵国多摩郡車返村(府中市)本願寺及び高野山(和歌山県)。
系譜
編集- 父:宮崎泰満
- 妻:原肥後守の娘
- 嫡男:宮崎泰重
- 二男:宮崎安重
- 三男:宮崎景次
- 四男:四郎右衛門
- 女子 - 座光寺為重の妻
- 女子:お仙(泰栄院) - 佐々木新八郎の妻、後に徳川家康の側室となる
- 五男:宮崎泰春
- 女子 - 中西太郎右衛門の妻
出典
編集- ^ 『寛政重修諸家譜』
参考文献
編集- 『寛政重修諸家譜 巻1051』
- 『阿智村史』
- 『府中市史』