宗義功 (富寿)

対馬国府中藩12代藩主。ただし、第11代藩主で同母兄の猪三郎(義功)と同じ人物として藩主に擁立されたため、第11代藩主と見なされることもある。子に暢孫質直(三男)、津江左善(四男

宗 義功(そう よしかつ)は、対馬国府中藩12代藩主。ただし、第11代藩主で同母兄の猪三郎(義功)と同じ人物として藩主に擁立されたため、第11代藩主と見なされることもある。

 
宗義功
宗義功像(養玉院蔵)
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 安永2年2月29日1773年3月21日
死没 文化10年5月17日1813年6月15日
改名 富寿、猪三郎、義功
戒名 浄元院
墓所 長崎県対馬市厳原町国分の万松院
官位 従四位下侍従対馬守式部大輔
幕府 江戸幕府
主君 徳川家治家斉
対馬府中藩
氏族 宗氏
父母 宗義暢永留藤右衛門娘織江
兄弟 猪三郎(義功)富寿(義功)、種寿ら
大炊御門家孝の娘彰順院
シケ(大山氏)、熊(熊生氏)、村上氏
義質暢孫質直津江左善大浦伯耆
特記
事項
兄の猪三郎の死後に身代わりで藩主となり、公式には同一人物とされた。猪三郎の幼名は兄に代わって名乗ったもの。
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生涯

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安永2年(1773年)2月29日、第10代藩主・宗義暢の六男として生まれる。ただし江戸幕府の記録では兄と生年を合わせるために明和6年(1769年)生まれと報告している。天明5年(1785年)に兄で第11代藩主だった猪三郎が死去したが、猪三郎は第10代将軍・徳川家治御目見していなかった。改易を恐れた家臣団は幕閣の示唆もあって、猪三郎の弟である富寿と種寿のうち、死去したのは種寿であるとして、富寿を義功に、種寿を富寿にそれぞれすり替え、そして富寿が家督を継いで藩主となった。ただし幕府の記録では、兄に合わせるため安永7年(1778年)相続ということにされている。

天明7年(1787年)から親政を開始し、倹約の徹底や講武所・講学所の設置などに務めたが、もともと病弱で若年のため、家臣団は主導権や交易をめぐっての派閥争いを繰り返し、藩も財政難になるなどの混乱が続いた。寛政2年(1790年)11月、従四位下・侍従・対馬守・式部大輔に叙任される。

文化9年(1812年)10月2日、家督を次男の義質に家督を譲って隠居する。文化10年(1813年)5月17日に死去した。享年41。

系譜

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偏諱を与えた人物

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  • (かつしげ、次男で次代藩主。のち義質に改名)
  • 杉村功加(宗氏家臣で、次代・義質亡き後、その遺言を偽造して政争を巻き起こす原因を作ったとされる)

関連項目

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