宋 訥(そう とつ、至大4年(1311年) - 洪武23年2月3日[1]1390年2月18日))は、初の儒学者教育者は仲敏、は西隠。本貫滑州白馬県

生涯

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元の侍御史の宋寿卿の子として生まれた。至正23年(1363年)、進士に及第した。塩山県尹に任じられたが、官を棄てて帰郷した。洪武2年(1369年)、洪武帝が儒士18人を召し出して礼楽諸書の編纂を命じると、宋訥はこれに参加した。事業終了後、宋訥は仕官せずに帰郷した。洪武13年(1380年[2]、四輔官の杜斅の推薦により国子助教に任じられた。洪武15年(1382年)、翰林学士に抜擢され、「宣聖廟碑」の撰述を命じられた。文淵閣大学士に転じた。洪武16年(1383年[3]、国子祭酒に転じた。洪武18年(1385年)、進士科の科挙が再開し、470人あまりが及第したが、そのうち国子監で学んだ者は3分の2に及んだ。洪武帝に喜ばれ、宋訥は褒美を受けた。国子助教の金文徴らが宋訥は病気であると吏部尚書の余熂に伝え、吏部から宋訥に致仕を命じる文書が発行された。宋訥が辞去の挨拶に訪れると、寝耳に水だった洪武帝が驚いて事情を問い、激怒して余熂や金文徴らを処刑した。宋訥は国子祭酒の任に留まった。

洪武23年2月丁酉(1390年2月18日)、宋訥は私邸で死去した。享年は80。は文恪といった。著書に『東郡志』16巻[4]『西隠集』10巻[5]があった。

人物・逸話

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  • 宋訥は慎重な性格で、学問に広く通じていた。
  • あるとき宋訥は寒さのため火を使っていたが、火が下着に燃え移り、皮膚が焼けるまで気づかなかった。洪武帝は学問に熱中しすぎないよう宋訥に警告した。
  • ときに功臣の子弟たちはみな国子監に就学し、年にその学生は数千人に及んだ。宋訥は国子監に厳しい学規を立て、一日中正座して経書の解釈を講義し、夜にも学舎にとどまった。
  • 宋訥が病にかかったが、洪武帝は「訥には寿骨がある。心配ない」といった。ほどなく快癒した。
  • 洪武帝が画工に命じて宋訥の肖像を描かせた。描きあげられたその肖像画は正座して怒った様子であった。翌日、宋訥が帝と対面すると、帝は「昨日は何で怒っていたのか」と訊ねた。宋訥は驚いたようすで「学生の中に走ってつまづいて、茶器を砕いた者がいたのです。臣は教育に失敗したことを恥じて、自らを責めていただけです。陛下はどうしてこのことをご存じなのですか」と答えた。帝は肖像画を出して見せた。宋訥は頓首して陳謝した。
  • 洪武帝が辺境政策についての意見を求めると、宋訥は砂漠に遠征するのは費用がかかるばかりで効果が薄いとし、東西五百里を制として分屯し、要害に布陣して連絡呼応し、敵が攻めてくれば戦い、敵が退却すれば屯田を耕すよう求めた。
  • 洪武23年(1390年)2月、宋訥は病が重くなったが、なおも学舎に留まっていた。長男の宋麟が私邸に帰るよう求めたが、宋訥は「ちょうど丁祭の時機だ。孔子に敬意を示さないわけにいくか」といって叱った。丁祭が終わると、宋訥は家に帰って死去した。

子女

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  • 宋麟(長男、進士、御史、望江主簿)
  • 宋復祖(次男、国子司業)

脚注

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  1. ^ 談遷国榷』巻9
  2. ^ 『国榷』巻7
  3. ^ 明史』職官志二
  4. ^ 『明史』芸文志二
  5. ^ 『明史』芸文志四

参考文献

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  • 『明史』巻137 列伝第25