安部俊吾
安部 俊吾(あべ しゅんご、1884年(明治17年)11月23日[1] - 1970年(昭和45年)2月3日[1][2][3])は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(2期)。
阿部 俊吾 あべ しゅんご | |
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生年月日 | 1884年11月23日 |
出生地 | 日本 宮城県桃生郡野蒜村山の坊 |
没年月日 | 1970年2月3日(85歳没) |
死没地 | 日本 東京都大田区 |
出身校 |
早稲田大学専門部政治経済科卒業 ホイトン大学文科卒業 |
所属政党 |
(宮城地方党→) (日本自由党→) (民主自由党→) (自由党→) 分派自由党 |
称号 |
正五位 勲三等旭日中綬章 |
選挙区 |
(宮城県全県区→) 宮城県第1区 |
当選回数 | 2回 |
在任期間 |
1946年 - 1947年 1949年 - 1952年 |
経歴
編集宮城県[2][3]桃生郡野蒜村[4]山の坊[5](鳴瀬町[5]を経て現東松島市)で生まれる。早稲田大学専門部政治経済科を卒業[2][3][4]。19歳で渡米し[5]、苦学してシカゴ大学大学院政治科、同法科などで学び、1912年(明治45年)ホイトン大学文科を卒業した[1][2][3]。在米中は、南加州日本人会長、中央ロスアンゼルス日本人会長、商工会議所会頭などを務め[1][2][3][4]、日米親善、在留邦人人権擁護などに尽力した[5]。
帰国後、塩釜市行政顧問、宮城県地方労働委員(中立代表)、徳海屋(株)支配人、不二貿易取締役社長などを務めた[1][2][3][4]。
1946年(昭和21年)4月、第22回衆議院議員総選挙に宮城県全県区から出馬して初当選[1][2][6]。1947年(昭和22年)4月、第23回総選挙で宮城県第1区から日本自由党公認で出馬したが落選[7]。1949年(昭和24年)1月、第24回総選挙で民主自由党公認で出馬して再選され[8]、衆議院議員に通算2期在任した[1][2][3]。この間、衆議院法務委員長などを務めた[2]。以後、第25回、第26回総選挙に連続して立候補したが、いずれも落選した[8]。
その後、仙台商工信用組合組合長、宮城信用組合協会長、全国信用組合連合会理事、同組合中央協会監事などを務めた[2][5]。
1970年(昭和45年)2月3日、心不全のため東京都大田区の自宅にて死去。85歳[9]。死没日をもって勲三等旭日中綬章追贈、正五位に叙される[10]。
脚注
編集- ^ a b c d e f g 『現代人名情報事典』34頁。
- ^ a b c d e f g h i j 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』2頁。
- ^ a b c d e f g 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』21頁。
- ^ a b c d 『人事興信録 第15版 下』補遺1頁。
- ^ a b c d e 『宮城県姓氏家系大辞典』298頁。
- ^ 『衆議院議員総選挙一覧 第22回』103頁。
- ^ 『衆議院議員総選挙一覧 第23回』41頁。
- ^ a b 『国政選挙総覧 1947-2016』30頁。
- ^ 訃報欄 安部俊吾氏(元代議士、自民党宮城県顧問)『朝日新聞』1970年2月4日朝刊 12版 15面
- ^ 『官報』第12944号14-15頁 昭和45年2月13日号
参考文献
編集- 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 第22回』衆議院事務局、1950年。
- 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 第23回』衆議院事務局、1948年。
- 人事興信所編『人事興信録 第15版 下』人事興信所、1948年。
- 『現代人名情報事典』平凡社、1987年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 竹内理三ほか編『宮城県姓氏家系大辞典』〈角川日本姓氏歴史人物大辞典4〉角川書店、1994年。
- 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』日外アソシエーツ、2003年。
- 『国政選挙総覧 1947-2016』日外アソシエーツ、2017年。
議会 | ||
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