安達 憲忠(あだち けんちゅう/のりただ[1]安政4年8月3日1857年9月20日) - 昭和5年(1930年12月2日)は、備前国赤坂郡小野田村(現・赤磐市熊山町)出身の社会実業家。東京市養育院幹事。

あだち けんちゅう

安達 憲忠
生誕 (1857-09-20) 1857年9月20日
岡山県赤磐市
死没 (1930-12-02) 1930年12月2日(73歳没)
国籍 日本の旗 日本
出身校 遺芳館
職業 社会実業家
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来歴

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1857年、備前国赤坂郡小野田村で生まれる[1]。幼くして母と死別[2] し、遠戚の天台宗寺院で育つ[2]。仏教を修める一方[2]、岡山の藩校遺芳館経学を学び[2]新聞記者となる。山陽新報、中国日々新聞、福島新聞などの記者を務める[1]傍ら、自由民権運動に携わり[2]、「岡山自由党の四天王の一人」と称される[2]。また、集会条例違反で逮捕された事も[2]あった。

その後上京し、1888年東京府に奉職[1][2]する。東京市養育院院長であった渋沢栄一の勧め[2]で、1892年、養育院幹事となる[2]。渋沢栄一の補佐役として、里親制度の開拓[2][3]や伝染病の隔離療養[2]無料宿泊所の創設[2]などに尽力し、浮浪児の感化訓育のため[1]井之頭学校、安房分院、巣鴨分院、板橋分院の創設等に携わり[2]、養育院の発展に献身した。

他に、中央慈善協会幹事、市設職業紹介所長代理、報徳会女子職業紹介所理事長、無料宿泊所顧問などを務めた[1]

1919年、養育院を退職[2]する。

1930年12月2日、脳溢血のため死去[4]。享年74。

著書

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  • 『乞児悪化の状況』安達憲忠、1895年。
  • 『東京市養育院沿革及実況』東京市養育院、1896年。
  • 『貧か富か』宣伝社、1922年。

関連項目

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脚注

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  1. ^ a b c d e f 『岡山人名辞典』13頁。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o コトバンク. “安達憲忠 とは”. 2013年4月23日閲覧。
  3. ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 39頁。
  4. ^ 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)2頁

参考文献

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  • 吉岡三平 監修『岡山人名辞典』 日本文教出版、1978年。

外部リンク

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