安東 聖空(あんどう せいくう、1893年8月19日 - 1983年3月3日)は、日本の書家文化功労者。本名・正郎(まさお)。別号に梅雪[1]

来歴

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兵庫県生まれ。1914年姫路師範学校(現在の兵庫教育大学)卒、1922年兵庫県立神戸第一高等女学校(現在の兵庫県立神戸高等学校)教諭。20代後半より日下部鳴鶴の門人、近藤雪竹に師事して漢字を学ぶ。

かなは、平安朝の代表的古筆『粘葉本和漢朗詠集』に範を求め独習。1925年桑田笹舟らと正筆会を結成[2]。この会には兵庫県立第一高等女学校やその流れを汲む兵庫県立神戸高等学校の関係者が多いという[3]

1929年[1]かな書道研究誌『かなとうた』を創刊。当時かな書道はマイナーで、当時の書壇の重鎮、丹羽海鶴から「君が神戸のかな書きか」というひと言を浴びたそうだ。安東はその言葉に発憤、かなの研究に生涯を捧げる覚悟を抱いたそうだ。1941年、安東は兵庫県立第一高等女学校を辞し、書道一本の生活に身を投じるも、その直後に18歳の一人娘を失う。悲嘆に暮れつつも研究の歩みは止まることなく、その努力は戦後見事に開花する。1953年の日展出品作を文部省が買い上げ、1957年には戦後初の式年遷宮を迎えた伊勢神宮社宝として作品が永久保存された[3]

また、第二次世界大戦後は『正筆』を創刊、主宰する[2]

1948年日本書芸院副会長、1950年日展審査員、1951年兵庫県文化賞受賞、1954年日展参事。1958年日展評議員、1970年参与、1973年顧問。1961年日本芸術院賞受賞、1968年勲四等旭日小綬章受章、1972年日本芸術院会員、1974年勲三等瑞宝章受章、1980年文化功労者。1982年正月に宮中歌会始召人

古典に裏打ちされた清楚なかな美が多くの支持を集め、かな書壇の重鎮として活躍。手本『梅雪かな帖』全3冊、著書『古典かなの美』全3巻がある[2]

著書

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脚注

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関連項目

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