安倍清継
安倍 清継(あべ の きよつぐ)は、平安時代初期の貴族。従四位下・阿倍安麻呂の孫で、従五位下・阿倍豊継の子とする系図がある[1]。官位は従五位下・下野介。
時代 | 平安時代初期 |
---|---|
生誕 | 不明 |
死没 | 不明 |
官位 | 従五位下・下野介 |
主君 | 平城天皇→嵯峨天皇→淳和天皇→仁明天皇 |
氏族 | 安倍氏 |
父母 | 父:阿倍豊継 |
兄弟 | 清成、清継 |
経歴
編集大同3年(808年)従五位下・下野介に叙任される。大同5年(810年)清継は越前介の官職にあったが、薬子の変の発生に伴って安芸権守に左遷され、新任の介として登美藤津が任ぜられた。ここで、平城上皇が伊勢国に向けて出発した知らせを聞いて、清継は越前権少掾・百済王愛筌と共に兵を挙げてこれに呼応し、赴任してきた藤津を捕らえて事務の引き継ぎもしなかった。しかし、民部少輔・紀南麻呂が糾問のために朝廷から派遣されると、清継と愛筌はともに罪を認め、清継は伯耆国への流罪に処された[2]。
天長10年(833年)同年に即位した仁明天皇によって大赦が実施される。これにより薬子の変に連座して配流された者に対して近国へ遷す措置が行われたが[3]、清継は伯耆から美作国へ遷配された。
官歴
編集『日本後紀』による。