安井金竜
江戸時代中期-後期の儒学者、漢学者、教育者
安井 金竜(やすい きんりゅう、寛延元年(1748年)- 寛政9年12月6日(1798年1月22日))は江戸時代中期-後期の儒学者、漢学者、教育者。福岡藩藩儒。名は儀。字(あざな)は民則。通称は三蔵。別号に蓋山[1][2]。
経歴
編集福岡藩士安井維允の子として筑前国に生まれる。家学を受け、長野一徳に学ぶ[2]。
安永6年(1777年)藩文学となり[2]、天明3年(1783年)福岡藩第9代藩主黒田斉隆により、藩校修猷館の創建が藩儒竹田定良に命じられると、同日に命じられその訓導(指南方)となる[3]。修猷館の教育方針、儀式などを定めた「修猷館学規」の作成にも参画した[4]。
天明6年(1786年)支藩の秋月藩において、藩主黒田長舒の侍読となり[2]、藩校稽古館の教授も務めた後[1]、寛政2年(1790年)福岡藩の江戸藩邸に出仕し、黒田斉隆の侍読を務めた[5]。寛政4年(1792年)近侍班頭となる[2]。