守敏(しゅびん、生没年不詳[1])は、平安時代前期の僧。出自については不詳である。守敏僧都(しゅびんそうず)と称される。
大和国石淵寺の勤操らに三論・法相を学び、真言密教にも通じた[1]。823年(弘仁14年)嵯峨天皇から空海に東寺が、守敏に西寺が与えられた[1]が、空海と守敏とは何事にも対立していたとされる。
824年(弘仁15年)の干ばつの時、神泉苑での雨乞いの儀式に於いて空海と法力を競った[1]、空海に敗れたことに怒り、彼に矢を放ったが地蔵菩薩に阻まれたと伝わる(これにちなみ現在、羅城門跡の傍らに「矢取地蔵」が祀られている)。同じくして西寺も寂れていったとされる。
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