宇田川興斎

日本の江戸時代の翻訳家、英文学者

宇田川 興斎(うだがわ こうさい、文政4年8月15日1821年9月11日) - 明治20年(1887年5月3日[1])は、幕末から明治期翻訳家英文学者箕作阮甫らと共に幕末の対米露交渉時に翻訳業で活躍。美濃大垣の医師飯沼慾斎の息子(三男)で後に宇田川榕菴の養子。長男に宇田川準一がある。

明治5年(1872年)には、幕末から住んでいた津山より一家まとめて東京に出、蛎殻町三丁目にあった旧藩主松平家の邸内に住んだ。漢学の方でも日本有数の大家だった上に、を能くし、和歌にも秀で、謡曲囲碁といった趣味も、素人の域を抜いていたという。

墓所は泰安寺岡山県津山市)。

著作

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  • 『英吉利文典』
  • 『万宝新書』
  • 『山砲用法』

脚注

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外部リンク

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