女山神籠石
女山神籠石(ぞやまこうごいし)は、筑後国山門郡(現在の福岡県みやま市瀬高町大草)にあった日本の古代山城(分類は神籠石系山城)。城跡は国の史跡に指定されている。
女山神籠石 / 女山城 (福岡県) | |
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女山城(女山神籠石)のある古塚山 | |
城郭構造 | 古代山城(神籠石系山城) |
築城年 | 不明 |
廃城年 | 不明 |
遺構 | 水門・石塁・土塁 |
指定文化財 | 国の史跡「女山神籠石」 |
位置 | 北緯33度9分47.90秒 東経130度31分8.32秒 / 北緯33.1633056度 東経130.5189778度座標: 北緯33度9分47.90秒 東経130度31分8.32秒 / 北緯33.1633056度 東経130.5189778度 |
近年は「女山城(ぞやまじょう)」とも称される傾向にある[1][2][3][4]。本項目では、城域内に所在する山内古墳群(やまうちこふんぐん、国の史跡に包含)についても解説する。
概要
編集福岡県南部、筑後平野・有明海沿岸部を望む古塚山(標高約190メートル)の西側斜面に築城された古代山城である[5]。文献に記載が見えない古代山城(いわゆる神籠石系山城)の1つで、現在の山名を冠する城名は後世の命名による。城は古塚山に土塁を巡らすことによって構築され、谷部4ヶ所では石塁の水門が構築される。これまでに数次の発掘調査が実施されている。
城跡域は1953年(昭和28年)に国の史跡に指定された[6]。現在では一部が女山史跡森林公園として公開されている[5]。
歴史
編集古代
編集女山城は文献上に記載のない城であるため、城名・築城時期・性格等は明らかでない。天智天皇2年(663年)の白村江の戦い頃の朝鮮半島での政治的緊張が高まった時期には、九州地方北部・瀬戸内地方・近畿地方において古代山城の築城が見られており、女山城もその1つに比定される。
1981年(昭和56年)の第4次調査によれば、築城時期は7世紀後半頃と推定される[7][5]。城に関する伝承は知られていないが[8]、かつては邪馬台国の卑弥呼の居地とする説などが挙げられていた[8][9]。なお、城域内では築城に先立つ6世紀後半頃に山内古墳群が築造されているほか、女山中腹では銅矛2本の出土も知られる[7]。
近代以降
編集近代以降については次の通り。
- 1900年(明治33年)、八木奘三郎による報告[7][5]。
- 1935年(昭和10年)、第1次調査:列石調査。水門4ヶ所・列石766個を確認(石野義助)[7][5]。
- 1953年(昭和28年)11月14日、国の史跡に指定[6]。
- 1963年(昭和38年)頃、神籠石論争が山城説でほぼ収束[5]。
- 1965年(昭和40年)、土取工事で列石線の一部が崩壊[5]。
- 1967年(昭和42年)、第2次調査:土取工事による崩壊に伴う調査[7][5]。
- 1971年(昭和46年)、第3次調査:産女谷水門の確認調査・列石線測量調査[7][5]。
- 1977年(昭和52年)7月14日、史跡範囲の追加指定[6]。
- 1981年(昭和56年)、第4次調査:山内2号墳付近の列石調査(瀬高町教育委員会、1982年に報告書刊行)[7][5]。
- 2010・2011年度(平成22・23年度)、第5次調査:基礎資料作成のための確認調査(みやま市教育委員会、2013年に報告書刊行)[7][5]。
遺構
編集- 城壁
- 城壁は全周推定2.7-3キロメートルを測る[5]。古塚山の西斜面において、山頂部を最高所とし、4ヶ所の谷(産女谷・源吾谷・長谷・粥餅谷(横尾寺谷))を取り込んで馬蹄形に一周する[7][5]。城壁の構造は土塁で、列石の上に構築される[7][5]。現在は約1.5キロメートルの列石線が認められるが、北・東側では土塁線・列石線は確認されていない[5]。
- 土塁裾部の土留め石となる列石遺構は、石材を基本的に長方形の切石とし、一部では自然石とする[5]。また上端にL字形の切り欠き加工が施された石もある[5]。これらの石は赤色粘土層の上に据えられ、前面・上面を直線的に揃え、全体としては曲線的に配置される[5]。列石上の土塁は版築により、2種の交互の土層が認められる[5]。また列石の前面には3メートル(10尺)間隔の柱穴も認められている[5]。
- 水門
- 水門は産女谷・源吾谷・長谷・粥餅谷(横尾寺谷)の4ヶ所で認められる。いずれも構造は石塁。
- 産女谷水門は、4水門のうち最南に位置する(北緯33度9分38.40秒 東経130度30分46.24秒 / 北緯33.1606667度 東経130.5128444度)。土取工事で崩壊しており、現在のものは積み替えられた状態になる[5]。現在では幅約7メートル・高さ約2.7メートルを測る[7]。
- 源吾谷水門は、産女谷水門の北に位置する(北緯33度9分46.24秒 東経130度30分46.44秒 / 北緯33.1628444度 東経130.5129000度)。土取工事に伴い現在は崩壊している[5]。
- 長谷水門は、源吾谷水門の北に位置する(北緯33度9分51.21秒 東経130度30分46.81秒 / 北緯33.1642250度 東経130.5130028度)。現在までに良好に遺存する。現在の石塁は5段積みで(元はさらに5段程度か)、幅約7.5メートル・高さ約2.5メートルを測る(元は高さ3.6メートル以上か)[7][5]。石材は正方形または長方形の切石で、大部分は幅40-80センチメートル、吐口部上位では幅約110センチメートルを測る[7][5]。
- 粥餅谷水門(横尾寺谷水門)は、4水門のうち最北に位置する(北緯33度9分55.50秒 東経130度30分46.51秒 / 北緯33.1654167度 東経130.5129194度)。現在までに良好に遺存する。現在の石塁は幅約7メートル・高さ約3メートルを測る(元は長谷水門と同程度か)[7][5]。石材は切石で、幅40-150センチメートル・高さ40-80センチメートルとばらつきは大きい[7][5]。
そのほかの城内施設等の存在は、現在までには未確認である[9]。
山内古墳群
編集山内古墳群(やまうちこふんぐん)は、女山神籠石の域内にある古墳群。円墳2基から構成される。
1号墳(北緯33度9分40.58秒 東経130度30分57.95秒 / 北緯33.1612722度 東経130.5160972度)は、直径約14メートルの円墳[10]。埋葬施設は横穴式石室で、西北西方向(平野部方向)に開口する[10]。現在では石室上面が失われている。2号墳(北緯33度9分41.00秒 東経130度30分59.19秒 / 北緯33.1613889度 東経130.5164417度)は、直径約14メートルの円墳で、1号墳と同程度の規模になる[10]。埋葬施設は横穴式石室で、1号墳同様に西北西方向(平野部方向)に開口する[10]。
これら1号墳・2号墳は、古墳時代後期の6世紀後半頃の築造と推定される[7][10]。
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1号墳 墳丘
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1号墳 石室開口部
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1号墳 石室内部
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2号墳 墳丘
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2号墳 石室開口部
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2号墳 石室内部
文化財
編集国の史跡
編集脚注
編集- ^ 『古代山城 鬼ノ城 -展示ガイド-』 総社市教育委員会、2012年、p. 20。
- ^ 齋藤慎一・向井一雄 「西日本の古代山城」『日本城郭史』 吉川弘文館、2016年、p. 45。
- ^ 『季刊考古学 第136号 -特集 西日本の「天智紀」山城-』 雄山閣、2016年、p. 14。
- ^ 向井一雄 『よみがえる古代山城 国際戦争と防衛ライン(歴史文化ライブラリー440)』 吉川弘文館、2017年、p. 11。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z みやま市史 資料編 上巻 2017, pp. 391–397.
- ^ a b c d 女山神籠石 - 国指定文化財等データベース(文化庁)
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 女山神籠石 2013.
- ^ a b 女山神籠石(国史).
- ^ a b 女山神籠石(平凡社) 2004.
- ^ a b c d e 山内古墳群説明板。
参考文献
編集(記事執筆に使用した文献)
関連文献
編集(記事執筆に使用していない関連文献)
- 『女山・山内古墳群 -福岡県山門郡瀬高町女山神籠石内所在古墳群の調査-(瀬高町文化財調査報告書 第2集) (PDF)』瀬高町教育委員会、1982年。 - リンクは九州国立博物館「西都 太宰府」資料観覧ライブラリー。