奥田重栄

日本の陸軍軍人

奥田 重栄(おくだ しげよし[1]1872年8月13日明治5年7月10日) - 1956年昭和31年)1月10日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将

奥田 重栄おくだ しげよし
生誕 1872年8月13日
死没 (1956-01-10) 1956年1月10日(83歳没)
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1894 - 1924
最終階級 陸軍少将
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略歴

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会津藩士・奥田鉱一郎の養子。陸軍幼年学校から陸軍士官学校入校(5期)。同期生に菱刈隆松江豊寿がいる。1894年(明治27年)9月、陸軍歩兵少尉に任官し、歩兵第5連隊付となる。

ほどなく日清戦争の開戦を迎え出征。1895年(明治28年)1月、龍睡島へ上陸したのを皮切りに虎山、寧海州、威衛海と転戦。全州の守備についたのち、台湾基隆に上陸。急水渓河口、王爺頭などで歴戦した。日露戦争では歩兵第37連隊第12中隊長として沙河会戦に参戦し、林盛堡のロシア軍を駆逐した。奥田はこの戦いで負傷している。

歩兵第16連隊中佐福知山連隊区司令官を経て、1917年大正6年)11月15日、歩兵第40連隊長に補され同職を3年半務めた後、1921年(大正10年)4月、少将へ昇進し台湾第2守備隊司令官となる。1924年(大正13年)2月26日予備役編入。

その後の奥田は京都に居住し、自宅には財団法人黒谷会津墓地保護会の京都支部(本部は会津松平家邸)が設置された[2]。四男の重武は1934年(昭和9年)時点で陸軍幼年学校生徒である[2]稚松会会員。

1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[3]

奉公袋と大山雪中行軍

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奥田は福知山連隊司令官在職中、軍人が出征する場合の必需品を袋に入れて用意しておくように訓示した。この袋を「嗜袋」と称していたが、これが陸軍大臣田中義一の知るところなり、在郷軍人に同様の準備を行うよう処置した。これが軍人が入営する際広く使われた「奉公袋」である。また奥田は連隊長在任中、師団長から雪中行軍の研究を命じられ、伯耆大山登攀計画を立案した。地元の未曾有の無謀企図とする反対にもかかわらず、自ら参加して計画を無事成功に導いている。この成功は大正天皇の上聞に達した[4]

栄典

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位階
勲章

脚注

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  1. ^ 『陸軍現役将校同相当官実役停年名簿 大正9年9月1日調』
  2. ^ a b 『稚松会会報第18号』
  3. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」123頁。
  4. ^ 『会津人物事典 (武人編)』108-109頁
  5. ^ 『官報』第3401号「叙任及辞令」1894年10月27日。
  6. ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。

参考文献

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  • 小島一男『会津人物事典 (武人編)』歴史春秋社
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』 芙蓉書房出版
  • 福川秀樹『日本陸海軍人名辞典』芙蓉書房出版