奥平昌蔭
奥平 昌蔭(おくだいら まさかげ、寛政5年(1793年) - 弘化4年12月11日(1848年1月16日))は、伊予松山藩家老、奥平藤左衛門家7代当主。
父は吉田張奉。養父は奥平貞教。養子は奥平貞臣。初名は貞蔭。通称は昇之助、藤左衛門。家老として、文化6年(1809年)に着手した松山城天守再建や、天保9年(1838年)に幕府より課された江戸城西丸再建の上納金問題に対処した。
生涯
編集寛政5年(1793年)、伊予松山藩家老の吉田張奉の四男として松山に生まれる。寛政9年(1797年)、前年嗣子なく家名断絶した奥平藤左衛門家を、新知1200石大名分として相続する。文化5年(1808年)、知行1500石となり組頭として与力を預かる。文化8年(1811年)、家老となる。文化10年(1813年)、藩主松平定通の将軍御目見の際に、将軍徳川家斉、世嗣家慶に拝謁する。文政6年(1823年)、伊勢桑名照源寺で行われた崇源院殿(松平定勝)二百回忌御法事の代拝を務める。文政11年(1828年)、金300両を賜る。同年軍用方を兼任。文政12年(1829年)、家老を辞職。文政13年(1830年)、知行3300石となり、同姓奥平貞熈の長男隼人を養子とする。同年家老に復職し、軍用方を兼務。天保6年(1835年)、藩主松平勝善の家督相続御礼言上の際に将軍家斉に拝謁する。天保9年(1838年)家老を辞職。
弘化4年(1847年)12月11日死去。享年55。
参考文献
編集- 『松山叢談』