奈佐節
由来
編集「六条さん」は、本来は西本願寺法主のことであり、法如が1780年(安永9年)に城崎温泉へ下向した際、奈佐も訪れたことに奈佐節の由来を求める見方もあるが、異なる見方も提示されている。
上田平雄は、『奈佐誌』の中で「奈佐節はこの災害を契機として生まれたものである」と記し、1780年の長雨と大規模な洪水よる奈佐の窮状を耳にした法如が城崎から奈佐に向かい、これを福成寺部落の中村宇八が喜んで踊ったことが奈佐節の起源だとしている[1]。児島義一も上田とほぼ同様で、法如は舟で奈佐に入ったと述べている[2]。
山口久喜は、法如が奈佐に立ち寄ったとする記録は無いと指摘している[3]。
萩原一郎は、前奏が気比に伝わる「祭文踊」のメロディーとほぼ同じであることから、「六条さん」の曲節はもともと祭文であり、本願寺及び法如側の布教師によって「六条さん」の歌や踊りが円山川下流域に広められたとしている[4]。
経過
編集昭和時代の初めごろまで「六条さん」は円山川下流一帯で盆踊りや農閑期の「ならし踊り」として踊られていた[4][6]。
1949年(昭和24年)12月に奈佐中学校(当時)の校長と教諭が奈佐節の保存・普及を企画し、1950年4月に郷土民謡保存会が設置された[7]。
1971年8月に開催された「但馬文教府開設10周年記念」の舞台には「奈佐節(六条さん)」の名称で出演し[6]、1977年から1981年に『豊岡市史』上巻が編纂されたころには奈佐川流域で歌い継がれるのみとなっていたようである[4]。
音声・実演画像
編集奈佐節の音声・歴史・実演画像などは豊岡市立奈佐小学校ホームページ「奈佐節History」(2019年2月9日閲覧)にも掲載されている。
その他
編集出典
編集- ^ 上田平雄「第四篇文化史/第二章奈佐節の起源」(奈佐誌編輯委員会編『奈佐誌』、1955年3月、pp.185-196)
- ^ 児島義一「第三章近世の城崎/第三節円山川の舟運と湯嶋舟」(城崎町史編纂委員会編『城崎町史』、pp.220-276、1988年3月)
- ^ 山口久喜「第二編近世/第九章江戸時代の宗教/第十節本願寺上人下向」(豊岡市史編集委員会編『豊岡市史』上巻、pp.818-821、1981年3月)
- ^ a b c 萩原一郎「第二編近世/第十章文化と教育/第五節民俗芸能と古い民謡」(豊岡市史編集委員会編『豊岡市史』上巻、pp.891-914、1981年3月)
- ^ a b 小谷茂夫『奈佐谷の歴史』、pp.180-181、但馬文化協会、2006年1月
- ^ a b 大森惠子「奈佐節(六条さん)」(豊岡市歴史文化遺産活用活性化事業実行委員会編『豊岡市の祭礼・年中行事調査報告書』、pp.99-101、2017年3月)
- ^ 上田平雄「第四篇文化史/第三章奈佐節の発展」(奈佐誌編輯委員会編『奈佐誌』、pp.196-197、1955年3月)
- ^ 上田平雄「第四篇文化史/第四章奈佐踊り(京仙さん節)の起源」(奈佐誌編輯委員会編『奈佐誌』、1955年3月、pp.197-201)
- ^ 瀬戸谷晧編『豊岡市の民俗文化財』、豊岡市教育委員会・豊岡市老人会連合会、1978年12月
参考文献
編集- 小谷茂夫『奈佐谷の歴史』、但馬文化協会、2006年
- 城崎町史編纂委員会編『城崎町史』、城崎町、1988年
- 瀬戸谷晧編『豊岡市の民俗文化財』、豊岡市教育委員会・豊岡市老人会連合会、1978年
- 豊岡市史編集委員会編『豊岡市史』上巻、豊岡市、1981年
- 豊岡市歴史文化遺産活用活性化事業実行委員会編『豊岡市の祭礼・年中行事調査報告書』、2017年
- 奈佐誌編輯委員会編『奈佐誌』、奈佐村、1955年