太祖獨戰四十人[注 1]は、『滿洲實錄』にみえる明万暦13年1585の戦役。

建州女直酋長ヌルハチ (後の太祖) は仇敵・尼堪外蘭ニカン・ワイランの拠る鵞爾渾オルホン城に侵攻したが、城内にニカン・ワイランの影はなかった。攻城戦の最中、ヌルハチは城外を逃げ去る40人の疑わしき一行を単独で追撃し、負傷しながらも撃攘した。その後、明側はヌルハチの再三の要求に応えてニカン・ワイランを捕え、逃げ場を失ったニカン・ワイランの首を刎ねたヌルハチは遂に祖父の仇を討った。

経緯

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万暦13年1585旧暦9月、ヌルハチスクスフ・ビラ部の安土瓜爾佳アントゥ・グァルギャ城を攻略して城主・諾謨琿ノムホン[注 2]を斬殺し、[1][2]翌14年1586 5月には、渾河フネヘ部の播一混山寨ボイホン・シャンチンを攻略した。[3][4]

同年7月、ヌルハチはさらに哲陳ジェチェン部の托漠河トモホ城に進攻した。雷雨に遭い、二人が雷電にあたって死亡した為、やむなく撤退したが、その後、再び招降を試み、同城を制圧した。[5][6]

太祖獨四十人

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左上:オルホン城/ 右:ヌルハチ (『滿洲實錄』巻2「太祖獨戰四十人」)

トモホ城を奪取したヌルハチは、その足で仇敵ニカン・ワイランを征討しようと、星の瞬く闇夜を兵を率い、相隣る諸部を経て鵞爾渾オルホン[7]に向かったが、城内に肝心のニカン・ワイランの影はなかった。[5][6]

復讐に逸る気持ちを抑えるヌルハチは攻城戦の最中、城外にいた40餘人の群れがヌルハチ一行をみるや慌てて逃げてゆくなかに、青い綿甲を着、毛氈の帽子を被った男がいるのをみとめた。その人物をニカン・ワイランと思い込んだヌルハチは、時ぞいたれると逃げゆく群衆に向かって単身つっこんでいった。ところが、群衆はヌルハチを返り討ちにせんとばかり一斉に矢を放ち、その内の一本はヌルハチの胸から肩を貫いた。ヌルハチは30箇所に創痍を負いながらも八人を射殺し、一人を斬り殺し、のこりの者は去っていった。[5][6]

オルホン城内に戻ったヌルハチは城内にいた漢人19人を殺し、さらに矢が刺さり負傷している者六名をみつけて捕えると、その矢を体内に深く捩じ込みながら、明の辺塞への言伝てを命じ、凄んで言った。[5][6]

尼堪外蘭を執へ送れ。然らずんば、且まさに兵を興し明を征たむとす。

(ニカン・ワイランを捕えて引き渡せ。さもなくば明を討つ。) その者が出ていくのをみとどけたヌルハチは、兵を率いて撤収した。[5][6]

齋薩尼堪外蘭

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左:ヌルハチ中央、ジャイサ右端 (『滿洲實錄』巻2「齋薩獻尼堪外蘭首」)

ニカン・ワイランを引き渡せと要求するヌルハチに対し、明側は使者を派遣し返答をよこして曰く、

尼堪外蘭既に我に歸したれば、豈に便すなはち執へて送らんや。爾なむぢ自ら來て之を殺すは可なり。

(帰順している者[注 3]を捕えて送り届ける道理はない。捕えてその場で殺す分には構わん) と。よもや、ニカン・ワイランを餌に誘き寄せようという心算りにやと疑るヌルハチに、明側は再び使者を派遣して曰く、

みづから往かず、少き兵を以て來なば、即ち執へて汝に與へむ。

(代りの者に少数の兵をもたせて派遣すれば、その者にニカンの身柄を渡そう。) そこでヌルハチは、齊薩ジャイサという者に命じて40人の兵とともにニカン・ワイランの身柄引き取りに向かわせた。ニカンはそれをみるや臺うてな(楼臺) の上へ逃げようとしたが、梯子がすでにとりはらわれていてのぼられず、その場で明兵に獲り押さえられ、ジャイサの手で誅殺された。明はこれ以降、銀800両と蟒緞[注 4]15[注 5]を毎年ヌルハチに贈り、両者は和解した。[5][8]

脚註

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典拠

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  1. ^ “乙酉歲萬曆13年1585 9月1日段297”. 太祖高皇帝實錄. 2 
  2. ^ “乙酉歲萬曆13年1585 9月段31”. 滿洲實錄. 2 
  3. ^ “丙戌歲萬曆14年1586 5月1日段298-299”. 太祖高皇帝實錄. 2 
  4. ^ “丙戌歲萬曆14年1586 5月段32”. 滿洲實錄. 2 
  5. ^ a b c d e f “丙戌歲萬曆14年1586 7月1日段300-301”. 太祖高皇帝實錄. 2 
  6. ^ a b c d e “丙戌歲萬曆14年1586 7月段33”. 滿洲實錄. 2 
  7. ^ “城池4 齊齊哈爾境內歷代舊有城池 (鄂勒歡城)”. 欽定盛京通志 (増補本). 32. 燕京大學圖書館 (Harvard Univ. Lib.) 所蔵. p. 2. "鄂勒歡國語解見吉林山川卷。城西南三十餘里。周圍二里。尼堪外蘭所築。我太祖高皇帝癸未年征尼堪外蘭撫降之。" 
  8. ^ “丙戌歲萬曆14年1586 7月段34”. 滿洲實錄. 2 

註釈

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  1. ^ 「太祖獨戰四十人」(書き下し:太祖四十人と獨戰す, 拼音:tàizǔ dúzhàn sìshí rén)
  2. ^ 『滿洲實錄』が「諾謨琿nomhon」とする一方、『太祖高皇帝實錄』では「諾莫混」としている。翌年の戦役の地「播一混寨」にひきずられたか。
  3. ^ 實錄中には、ニカン・ワイランがオルホン城からどこへ行ったかの記載がない為、ニカン・ワイラン最期の地についても詳かでない。後述の通り「臺」とある為、明辺塞のどこかの堡壘だった可能性が高い。
  4. ^ 「蟒」は一種の蛇。「緞」は緞子ドンス。「蟒緞」は従って蛇の図案が描かれた緞子の意で、明朝が功績のあった臣下に与える褒美の一種。「蟒」の爪は官位によって本数が定められていたとされる。
  5. ^ 「蟒緞十五疋(/匹)」。「疋(/匹)」は反物の長さの単位で、ふるくは4丈に相当したとされるが、時代によって変動あり。

文献

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實錄

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中央研究院歴史語言研究所

清實錄

  • 編者不詳『滿洲實錄』乾隆46年1781 (漢)
    • 『ᠮᠠᠨᠵᡠ ᡳ ᠶᠠᡵᡤᡳᠶᠠᠨ ᡴᠣᠣᠯᡳmanju i yargiyan kooli』乾隆46年1781 (満) *今西春秋訳版
      • 今西春秋『満和蒙和対訳 満洲実録』刀水書房, 昭和13年1938訳, 1992年刊
  • 覚羅氏勒德洪『太祖高皇帝實錄』崇徳元年1636 (漢)

史書

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地理書

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論文

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