太田 資順(おおた すけのぶ)は、江戸時代後期の大名遠江国掛川藩の第3代藩主。官位従五位下摂津守。掛川藩太田家7代。

 
太田資順
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 宝暦12年(1762年
死没 文化5年10月7日1808年11月24日
改名 正之助(幼名)、資順
戒名 道栄日感大悟院
墓所 静岡県三島市妙法華寺
官位 従五位下摂津守
幕府 江戸幕府奏者番
主君 徳川家斉
遠江掛川藩
氏族 太田氏
父母 父:太田資愛、母:不詳
兄弟 資武資順資言、正子、木下俊懋正室ら
正室:丹羽高庸の娘
継室:本多忠可の娘
永井直与正室
養子:資言
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略歴

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第2代藩主・太田資愛の次男。明和元年(1764年)12月20日生まれともされる。母は側室と言われている。幼名は正之助。

天明5年(1785年)に長兄の資武が早世したため、世子に選ばれた。文化2年(1805年)の父の死去により跡を継ぎ、翌年には奏者番となった。しかし3年後の文化5年(1808年)10月7日(または10月11日)に47歳で死去し、跡を弟で養嗣子の資言が継いだ。法号は道栄日感大悟院。墓所は静岡県三島市妙法華寺

系譜

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父母

正室、継室

子女

養子