太田 正男(おおた まさお、1933年8月9日 - )は、長崎県出身の元プロ野球選手投手)。

太田 正男
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 長崎県
生年月日 1933年8月9日
没年月日 2023年12月24日(90歳没)
身長
体重
175 cm
70 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1953年
初出場 1953年
最終出場 1959年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

来歴・人物

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長崎商業では、大阪タイガースで選手経験のある比留木虎雄監督の指導を受ける[1]1952年、エースとして春の選抜に出場。2回戦(初戦)では日大三高若杉輝明との投手戦に3-2で辛勝。準々決勝に進み八尾高木村保と投げ合うが敗退した[2]。同年夏の選手権は準々決勝で再び日大三高と対戦。若杉と互いに無失点で投げ合い、延長11回1-0で完封勝利。準決勝に進出するが、またも八尾高の木村に完封を喫する[3]。同年秋の東北3県国体にも出場。準々決勝(初戦)で気仙沼高に敗退。高校同期に三塁手河津憲一がいた。

1953年西鉄ライオンズに入団。1年目から一軍に上がり5月に初先発、同年は5試合に先発として起用される。1955年大映スターズへ途中移籍、初勝利を挙げる。1956年には先発陣に入り4勝、9月19日には東映牧野伸と投げ合い、初の完封勝利を飾る。翌1957年はチーム最多の60試合に登板、6勝20敗を記録した。チームが高橋、毎日と合併した1958年は主としてリリーフで活躍するが、1959年には登板機会が減少し、同年限りで引退した。

プロ入団時には、高校の同世代で甲子園でも活躍し、後に毎日・大毎で活躍する植村義信南海で活躍する木村保と共に高校三羽烏とも言われており、注目の投手としてスカウトも集まった。しかし契約解禁前に西鉄ライオンズが太田と契約。解禁後、タイガーススカウトの青木一三が太田獲得へ九州へと乗り出す。青木は毎日のように太田家へ顔を出していたので顔なじみとなっており、西鉄の契約を知った上で太田と契約したため二重契約となった。この問題は解禁前に契約した西鉄が悪いが、西鉄との関係を悪化させたくなかった田中義一代表は太田の契約を破棄したため、太田は西鉄へと入団が決まり、代わりにタイガースは太田とチームメートだった河津を獲得した[4]。アンダースローから、シュート、カーブを武器とした。

詳細情報

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年度別投手成績

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W
H
I
P
1953 西鉄 19 5 0 0 0 0 1 -- -- .000 192 45.2 39 2 23 -- 2 20 1 0 20 16 3.13 1.36
1954 6 2 0 0 0 0 0 -- -- ---- 45 9.2 8 0 6 -- 1 3 0 0 9 6 5.40 1.45
1955 大映 7 5 0 0 0 1 1 -- -- .500 97 20.2 20 0 16 0 0 12 0 0 9 7 3.00 1.74
1956 54 18 1 1 0 4 6 -- -- .400 627 159.1 118 6 50 0 2 79 3 0 44 33 1.86 1.05
1957 60 29 3 1 0 6 20 -- -- .231 854 206.0 177 17 74 4 4 93 1 0 90 77 3.36 1.22
1958 大毎 32 8 0 0 0 5 3 -- -- .625 333 75.0 70 2 43 2 1 33 1 0 37 28 3.36 1.51
1959 4 1 0 0 0 0 0 -- -- ---- 27 6.1 6 1 3 0 0 1 0 0 2 1 1.29 1.42
通算:7年 182 68 4 2 0 16 31 -- -- .340 2175 522.2 438 28 215 6 10 241 6 0 211 168 2.89 1.25

背番号

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  • 17 (1953年 - 1954年)
  • 52 (1955年 - 1956年)
  • 19 (1957年)
  • 29 (1958年 - 1959年)

脚注

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  1. ^ 長商の歴史:ゆ~かりの樹の下で 太田正男
  2. ^ 「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年
  3. ^ 「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年
  4. ^ げんまつWEBタイガース歴史研究室 太田正男

関連項目

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外部リンク

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