大阪城の火事(おおさかじょうのかじ)とは、集団や組織の指揮管理において、具体的な指示を出すことの重要性を示すたとえ話である。史実の大阪城(大坂城)において、該当する火災は確認されていない。

たとえ話

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安土桃山時代、大阪城にて豊臣秀吉家老たちに「今夜は風が強く、火事になりやすい。火の元には十分気を付けろ」と指示した。家老たちはその下の奉行たちに「今夜は風が強く、火事になりやすい。火の元には十分気を付けろ」と指示し、また奉行たちもその下の見張りの足軽たちに「今夜は風が強く、火事になりやすい。火の元には十分気を付けろ」と指示した。だが結局その夜に大阪城で火事が起こってしまった。

このたとえ話は、指揮管理には具体的な方策などを含めて指示すべきで、各役職はその業務の役割に応じた行動指示を必要とすることを伝える。トップから方針が発せられた場合、その指示を受けた管理職はその職域において方針を実現するための計画を練り部下に指示し、それが実施される責任を負うべきとされる[1][2][3]

史実における大阪城(大坂城)の火災

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以下に示すように、記録に残る火災(大坂の陣太平洋戦争における戦災は除外)はいずれも江戸時代以降のものである[要出典]

  1. 1660年7月25日万治元年6月18日)、落雷により、城内青屋門近くにあった土蔵造りの焔硝蔵が爆発し[4]天守や御殿、櫓、橋など、多数の建造物を焼失した。[要出典]
  2. 1665年2月16日寛文5年1月2日)、落雷により、天守を焼失した[4]
  3. 1783年11月5日天明3年10月11日)、落雷により、大手御門が焼失した[5]
  4. 1868年慶応4年) - 1月31日旧暦1月7日)以降連日のように火災が発生[6]2月2日旧暦1月9日)には、本丸御殿の台所より出火し、本丸御殿・本丸の三重櫓11基・桜門・姫門など本丸のすべての門、山里曲輪の東菱櫓・西片菱櫓・山里門・極楽橋、二の丸の四番櫓・五番櫓・七番櫓・太鼓櫓・艮櫓・巽櫓・玉造門など城内の建造物のほとんどを焼失した。
  5. 1947年9月、占領軍の失火により、紀州御殿が焼失した。

脚注

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  1. ^ 松井隆「若手社員に「何を」、「どう」教えるか」『月刊経営労働』第32巻第11号、経営労働協会、1997年11月、4-6頁、ISSN 0954-9374  該当記述は6頁にある。
  2. ^ 池田克彦「マネージメントの広場 キー・ストーリーのすすめ」『警察学論集』第49巻第9号、立花書房、1996年9月、133-138頁。  該当記述は136 - 137頁にある。
  3. ^ 出原健三、田中節夫「新春特別対談 交通警察の課題と展望」『警察学論集』第50巻第1号、立花書房、1997年1月、1-30頁。  該当箇所は25頁の出原の発言に「『大阪城の火事』に例えられますように、上から下まで同じような指示をしているような感じが若干あるわけですね」とある。
  4. ^ a b 近世における落雷による事故1 - ワールド避雷針工業
  5. ^ 近世における落雷による事故3 - ワールド避雷針工業
  6. ^ 1868年(慶応4年1月) 大坂城炎上 - 関西学院大学(櫟原家文書)

関連項目

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