大関政増
大関 政増(おおせき まさます)は、江戸時代初期の大名。下野国黒羽藩2代藩主。
時代 | 江戸時代初期 |
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生誕 | 天正19年(1591年) |
死没 | 元和2年5月30日(1616年7月13日) |
改名 | 平治郎(幼名)[1]→政増 |
別名 | 通称:弥平次[1][2] |
霊名 | 霊照院殿顧岑道鑑大居士 |
墓所 | 栃木県大田原市の大雄寺 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川秀忠 |
藩 | 下野黒羽藩主 |
氏族 | 大関氏 |
父母 | 父:大関晴増、母:白河義親娘[1] |
妻 | 正室:水野重央娘・しゃむ姫 |
子 | 高増(長男)、増広(次男)、那須資重継室、浄法寺茂明室 |
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは徳川氏に対する人質として江戸に赴いた[2]。慶長10年(1605年)、叔父・大関資増から家督を譲られた[3]。慶長19年(1614年)、里見忠義が改易されると、館山城の守備を務める。
同年冬からの大坂冬の陣では、徳川方に与して本多正信に属し河内国平野口を守備した[4]。翌年の大坂夏の陣では、敵の首級を97個取った。
系譜
編集父母
正室
- しゃむ姫 ー 水野重央の娘
子女