大門恒作
日本の政治家 (1872-1964)
大門 恒作(おおかど つねさく、1872年6月28日(明治5年5月23日[1])- 1964年10月25日[2])は、日本の政治家。衆議院議員(1期)、栃木県会議長、栃木県塩谷郡氏家町長。
大門恒作 おおかど つねさく | |
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生年月日 | 1872年6月28日 |
出生地 |
日本 栃木県塩谷郡飯室村 (現・高根沢町) |
没年月日 | 1964年10月25日(92歳没) |
出身校 | 私立中学以道館卒業 |
前職 | 下野新聞記者 |
所属政党 | 立憲民政党 |
選挙区 | 栃木県第1選挙区 |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1936年 - 1937年3月31日 |
第30・32代栃木県会議長 | |
在任期間 |
1930年12月 - 1931年9月 >1932年11月 - 1934年11月 |
在任期間 | 1897年 - ? |
経歴
編集栃木県[2]塩谷郡飯室村(熟田村、北高根沢村を経て現高根沢町大字飯室)で、大地主・鈴木良一の息子として生まれる[3]。同郡氏家町(現さくら市)の大門喜平の養子となる[3]。
1891年私立中学以道館卒。下野新聞社に入る。日清戦争では従軍記者として派遣された[2]。1897年(明治30年)氏家町会議員に就任[3]。栃木県議、同第30・32代議長(1930年12月から1931年9月までと、1932年11月から1934年11月まで[4])、氏家町長となる[2]。
1936年の第19回衆議院議員総選挙で栃木1区(当時)から立憲民政党公認で立候補して当選した[5]。衆議院議員を1期務め、1937年の第20回衆議院議員総選挙には出馬しなかった。終戦後、公職追放となった[6]。
脚注
編集参考文献
編集- 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年。
- 日本国政調査会編『衆議院名鑑 第1回・1890年~第34回・1976年総選挙』国政出版室、1977年。
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 『栃木県歴史人物事典』下野新聞社、1995年。