大石吉之進
大石 吉之進(おおいし きちのしん、元禄4年(1691年) - 宝永6年3月1日(1709年4月10日))は、江戸時代中期の武士、僧。名は良以(よしもち)。通称の吉之進は書状によって吉千代(きちちよ)となっているものもある。僧名は元快(げんかい)。
元禄4年(1691年)、赤穂藩筆頭家老大石良雄とその妻りくの次男として赤穂の大石邸で生まれる。元禄14年(1701年)、赤穂藩改易後、遠林寺で藩政残務処理にあたる父良雄は、事が落ち着くまで5月11日に妻のりくや子の良金・吉之進・くう・るり達を但馬国豊岡の石束毎公のもとに送った。同年7月に大石が京都の山科に住居を落ち着けると、妻子も山科へ移ったが、吉之進だけは豊岡に留めおかれた。
その後、元禄15年(1702年)4月頃に討ち入りに加わる決意をした兄・良金を除き、討ち入りに連座しないように絶縁された母達が豊岡に戻ってきた。吉之進は、同年10月に豊岡の城崎郡竹野村須谷の円通寺に滞在していた大休(元南禅寺和尚)に弟子入りして仏門に入り、祖錬元快と称した。父の大石良雄はこれを嘆き「出家したと聞いたが、(大石と義絶しても他の)武家を継ぐようにせよ」と神護寺に宛て吉之進を叱責している[1]。
その後、豊岡の興国寺の雪村和尚のもとに移ったが、宝永6年(1709年)3月1日に死去した。享年19。姉くうと同じ豊岡の正福寺に葬られた。
同市では、戦後、「大石りく祭り」が行われていたが、2017年(平成29年)開催の第20回をもって終了している[2]。また吉之進の墓は興国寺が無くなった現在もそのまま墓地にあるが、荒廃が進んでいた。そこで豊岡市の支援が得られない現状の中、2021年(令和3年)に市民運動団体ら有志により「年大石吉之進の会」が立ち上げられ、市民による寄付の依頼が呼びかけられ[3]、翌2022年(令和4年)に覆い屋は修復され墓はきれいに整備された[4]。
脚注
編集- ^ 元禄15年12月13日付恵光・良雪・神護寺宛 大石良雄書簡「寺々への暇乞い状」
- ^ “「大石りくまつり」の歴史に幕 実行委高齢化で決断”. 神戸新聞NEXT. (2017年10月31日) 2022年8月8日閲覧。
- ^ “大石吉之進の墓回収へ”. 産経新聞但丹版. (2021年12月7日)
- ^ “コラム浪速風 74歳の挑戦”. 産経新聞. (2022年10月25日)
関連項目
編集外部リンク
編集- “大石内蔵助の妻-理玖(りく)ゆかりの地”. とよおかステッチ. 2015年1月23日閲覧。
- “大石りく”. 但馬の百科事典. 2015年1月23日閲覧。