大石信重
南北朝時代の武士・武将。木曾家教の三男? 四男? 大石氏中興の祖。遠江守。武蔵・伊豆守護代
大石 信重(おおいし のぶしげ)は、南北朝時代の武将。大石氏中興の祖とされる。武蔵国・伊豆国守護代。
時代 | 鎌倉時代後期 - 南北朝時代 |
---|---|
生誕 |
延元元年/建武3年5月24日(1336年7月3日)[1] 建武元年(1334年)とも[1] |
死没 | 応永31年2月17日(1424年3月17日)[1] |
戒名 | 直山道守 |
墓所 | 埼玉県所沢市久米の永源寺 |
官位 | 遠江守 |
幕府 | 室町幕府 武蔵・伊豆守護代 |
主君 | 上杉憲顕→憲方→憲定 |
氏族 | 木曾氏→大石氏 |
父母 |
父:木曾家教、母:宇野氏娘 養父:大石為重 |
兄弟 | 木曾家道、木曾家村、木曾家定、信重 |
妻 | 正室:藤田小三郎義行娘 |
子 | 憲重、重仲 |
生涯
編集木曾家教の四男として誕生。縁戚関係にある大石為重の養子となる。関東管領・上杉憲顕に仕え、武蔵国比企郡津下郷三百貫文を与えられた。
正平6年/観応2年(1351年)、挙兵した南朝方の新田義宗と敵対し、笛吹峠の合戦で先陣を勤めた。正平11年/延文元年(1356年)5月、その戦功として武蔵入間・多摩両郡に13郷を得て同年8月に多摩に移住し、二宮[2]に館を構えた。また、武蔵目代職、武蔵守護代、伊豆守護代を歴任した。元中元年/至徳元年(1384年)、浄福寺城[3]を築城した。