大石信幸
日本のサッカー選手 (1939年生)
大石 信幸(おおいし のぶゆき、1939年9月12日 - )は、広島県広島市出身の元サッカー選手。ポジションはFW。
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名前 | ||||||
カタカナ | オオイシ ノブユキ | |||||
ラテン文字 | OISHI Nobuyuki | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | 日本 | |||||
生年月日 | 1939年9月12日(85歳) | |||||
出身地 | 広島県広島市 | |||||
身長 | 162cm | |||||
体重 | 62kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW | |||||
ユース | ||||||
山陽高校 | ||||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
????-1970 | 八幡製鉄/新日本製鐵 | 61 | (21) | |||
通算 | 61 | (21) | ||||
代表歴 | ||||||
1964 | 日本 | 1 | (0) | |||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
来歴
編集広島市立千田小学校の一学年下の宮本輝紀、岡光龍三らと山陽高等学校に進学し1957年、主将として国体準優勝。八幡製鉄サッカー部でも1963年、1964年度全日本実業団サッカー選手権大会2連覇、1964年度の天皇杯優勝に貢献。1965年創設された日本サッカーリーグ(JSL)一年目は桑田隆幸(東洋工業)と並んで11得点を挙げ、得点王・野村六彦(日立)に次ぐ得点2位と、初年度の得点王争いは全員広島出身者だった[1]。
所属クラブ
編集個人成績
編集国内大会個人成績 | |||||||||||
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年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
日本 | リーグ戦 | - | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
1965 | 八幡 | JSL | 11 | - | |||||||
1966 | - | ||||||||||
1967 | - | - | |||||||||
1968 | - | ||||||||||
1969 | - | ||||||||||
1970 | 新日鐵 | - | - | ||||||||
通算 | 日本 | JSL | 61 | 21 | - | ||||||
総通算 | 61 | 21 | - |
代表歴
編集- 日本代表初出場(国際Aマッチ):1964年3月3日 対シンガポール(民連隊)戦(シンガポール)
- 日本代表初出場:1964年2月19日 対タイ・バンク戦(バンコク)
試合数
編集- 国際Aマッチ 1試合 0得点(1964)
日本代表 | 国際Aマッチ | その他 | 期間通算 | |||
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年 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 |
1964 | 1 | 0 | 2 | 0 | 3 | 0 |
通算 | 1 | 0 | 2 | 0 | 3 | 0 |
出場
編集No. | 開催日 | 開催都市 | スタジアム | 対戦相手 | 結果 | 監督 | 大会 |
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1. | 1964年03月03日 | シンガポール | シンガポール | ○2-1 | 長沼健 | 国際親善試合 |
出典
編集参考文献
編集- 『日本サッカーリーグ全史』日本サッカーリーグ、1993
外部リンク
編集- 大石信幸 - National-Football-Teams.com
- 大石信幸 - Transfermarkt.comによる選手データ