大浜忠三郎
実業家、政治家
2代 大浜 忠三郎(大濱、おおはま ちゅうざぶろう、1871年5月19日(明治4年4月1日[1][2][3])- 1925年(大正14年)11月24日[3][4][5][6])は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員、横浜市会議長。幼名・茂七郎[1][2][4]。
経歴
編集武蔵国久良岐郡、現在の横浜市[7][注 1]で、洋糸織物商・初代大浜忠三郎の長男として生まれる[1][2][4][6]。横浜商業学校(現横浜市立横浜商業高等学校)を経て[6]、1888年(明治21年)[注 2]東京専門学校(現早稲田大学)英語本科を卒業し[3][5][6][7]、欧米諸国を遊歴した[6]。
家業を継承して洋織物商「信濃屋」[注 3]を経営し[6]、1904年(明治37年)10月、家督を相続し忠三郎を襲名した[1][2][6]。横浜取引所理事長、横浜商業会議所議員、横浜生命保険社長、横浜倉庫取締役、神奈川県農工銀行取締役などを務めた[1][2][6][7]。
政界では、1904年4月、神奈川県会議員、横浜市会議員に選出され[6]、横浜市参事会員、神奈川県会市部会議長などを務めた[5]。1913年(大正2年)横浜市会で大小選挙区論により解散選挙が行われ、大浜は再選され中立派の支持を受けて市会議長に就任し、小選挙区の撤廃が行われた[2][6]。1920年(大正9年)5月の第14回衆議院議員総選挙で神奈川県第1区から憲政会公認で出馬して初当選[5]。1924年(大正13年)5月の第15回総選挙で再選され、衆議院議員に連続2期在任した[3][5]。1925年春から食道がんのため逗子新宿の別邸で療養していたが、同年11月、議員在任中に死去した[4]。
著作
編集- 『起るか?起らぬか?日米戦争』甲子出版社、1924年。
- 『無病強健精力絶倫法 : 医者いらず薬いらず』甲子出版社、1924年。
- 『迷信的運不運と科学的運不運』甲子出版社、1925年。
親族
編集脚注
編集注釈
編集出典
編集参考文献
編集- 成瀬麟、土屋周太郎編『大日本人物誌 : 一名・現代人名辞書』八紘社、1913年。
- 加藤紫泉『新代議士名鑑』国民教育会、1924年。
- 『大正過去帳 物故人名辞典』東京美術、1973年。
- 神奈川県県民部県史編集室編『神奈川県史 別編1』人物 : 神奈川県歴史人名事典、神奈川県、1983年。
- 『横浜近代史辞典』湘南堂書店、1986年(『横浜社会辞彙』 (横浜通信社大正7年刊) の改題)。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 『20世紀日本人名事典 あ-せ』日外アソシエーツ、2004年。