大島駿
大島 駿(おおしま はやし、1887年(明治20年)12月19日[1][2] - 1970年(昭和45年)9月6日[1][注 1])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。毒ガス兵器の研究者[1]。
経歴
編集佐賀県出身[1][2][3]。農業・大島幸三郎の三男として生まれる[1]。佐賀中学校(現佐賀県立佐賀西高等学校)、大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1910年(明治43年)5月、陸軍士官学校(22期)を卒業[1][2][4]。同年12月、砲兵少尉に任官し近衛野砲兵連隊付となる[1][4]。1913年(大正2年)11月、陸軍砲工学校高等科(19期)を優等で卒業した[3][5]。陸軍派遣学生として東京帝国大学工科大学応用科学科で学び、1917年(大正6年)7月に卒業した[3][6]。
1917年12月、近衛野砲兵連隊大隊副官に就任[1]。東京砲兵工廠付、陸軍科学研究所員を務め、1919年(大正8年)10月、砲兵大尉に昇進[1]。1921年(大正10年)2月、臨時毒瓦斯調査委員に就任し、1924年(大正13年)4月、仏独に出張し、1927年(昭和2年)12月に帰国[1]。この間、1925年(大正14年)8月、砲兵少佐に進級[1]。その後、科学研究所員を経て、1928年(昭和3年)8月、陸軍造兵廠火工廠忠海兵器製造所長に就任[1]。1930年(昭和5年)3月、砲兵中佐に進む[1]。火工廠作業課長を務め、1934年(昭和9年)8月、砲兵大佐に昇進[1][3]。
1934年12月、板橋火薬製造所長に就任し、陸軍省兵器局銃砲課長、陸軍造兵廠作業部長を経て、1938年(昭和13年)3月、陸軍少将に進み陸軍科学研究所第2部長に就任[1][2][3]。1939年(昭和14年)3月、火工廠長に転じ、1940年(昭和15年)4月、組織変更により東京第二陸軍造兵廠長に就任[1][2][3]。同年12月、陸軍中将に進級し、1943年(昭和18年)12月、予備役に編入された[1][2][3]。
栄典
編集- 位階
- 1911年(明治44年)3月10日 - 正八位[7]
- 1914年(大正3年)2月10日 - 従七位[8]
- 1919年(大正8年)3月20日 - 正七位[9]
- 1924年(大正13年)5月15日 - 従六位[10]
- 勲章
- 1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章[11]
脚注
編集注釈
編集- ^ 『日本陸軍将官辞典』147頁では9月5日。
出典
編集- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 『日本陸海軍総合事典』第2版、36頁。
- ^ a b c d e f 『日本陸軍将官辞典』147頁。
- ^ a b c d e f g 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』276頁。
- ^ a b 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』271、276頁。
- ^ 『日本陸海軍総合事典』第2版。36、637頁。
- ^ 『日本陸海軍総合事典』第2版。36、612頁。
- ^ 『官報』第8313号「叙任及辞令」1911年3月11日。
- ^ 『官報』第460号「叙任及辞令」1914年02月12日。
- ^ 『官報』第1988号「叙任及辞令」1919年03月21日。
- ^ 『官報』第3534号「叙任及辞令」1924年6月5日。
- ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
参考文献
編集- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。