大屋 敦(おおや あつし、明治18年(1885年9月5日 - 昭和45年(1970年8月18日)は、日本実業家住友化学工業社長を務めた。

大審院判事を務めた永井岩之丞の六男[1]。姉・夏子は内務官僚・平岡定太郎の妻(作家三島由紀夫の祖母)。

経歴

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東京に父・岩之丞、母・高のもとに6番目の子として生まれた。きょうだいは同じ父母の下に全部で12人。岩之丞は裁判官で、大審院の判事だった。高は常陸宍戸藩松平頼位の娘で、家の格式は高いが小藩のため維新後は貧乏華族の一つであった。なお、母の生母は“第二夫人”だった[2]

1885年9月、尋常小学校2年のとき、大屋釛三郞の養子に入り[1]、苗字が永井から大屋に変わった[3]

1910年(明治43年)東京帝国大学工科大学電気工学科卒業[1]逓信省電気局技師から住友総本店に入り[1]日本板硝子取締役、住友合資の経理部長、総務部長を経て住友化学専務となり、1941年(昭和16年)社長。ほかに住友アルミニウム製錬社長・会長、住友本社理事、軍需省顧問なども歴任した。戦後、1948年(昭和23年)住友ベークライト会長、気象協会会長、科学技術庁顧問を兼ねた。

家族

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著書

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  • 『産業人の原子力教室』
  • 『産業一路』

などがある。

参考文献

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脚注

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  1. ^ a b c d 大屋敦 (第8版) - 『人事興信録』データベース”. jahis.law.nagoya-u.ac.jp. 名古屋大学大学院法学研究科. 2022年12月15日閲覧。
  2. ^ 大屋は『私の履歴書』に「母には生母がいた。戸籍上の母でなく、生みの親ということである。当時の社会ではそういうことがありがちで、第二夫人だったわけだ。この生母つまり私の実の祖母は芝居茶屋の娘であったとのこと。私は生前会った記憶がある。たいへん美しいおばあさんだった。この祖母は新門辰五郎の姪であった由であるから、私も新門辰五郎の血をいくらかひいていると言えそうだ。」と書いている
  3. ^ 大屋は『私の履歴書』に「元幕臣沢太郎左衛門という人から“お前のところは男のきょうだいが多いから一人ぐらい他家をついでもいいだろう”とすすめられ、父は当時いちばん年下の男子であった私に、大屋を名乗らせたのだ。しかし跡目相続といっても、ほんとうに名ばかりで、大屋家の縁者は全くなく、もとより家も財産もなかった。私は、これからは自分の親しんだ永井の苗字を名乗れなくなったのが悲しく、一晩、泣きあかしたものであった。」と書いている
  4. ^ 平岡萬次郎『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
  5. ^ 永井亨『人事興信録』第8版、昭和3(1928)年
  6. ^ 永井啓『人事興信録』第8版、昭和3(1928)年
  7. ^ 永井繁『人事興信録』第8版、昭和3(1928)年
  8. ^ 磯崎清吉人事興信録 第14版 上 1943
  9. ^ 横山英太郎『人事興信録』第8版、昭和3(1928)年
  10. ^ 田中文蔵『人事興信録』第8版、昭和3(1928)年
  11. ^ 大屋敦『人事興信録』第8版、昭和3(1928)年

外部リンク

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