大場弥平
日本の陸軍軍人
大場 弥平(彌平、おおば やへい、1883年(明治16年)12月15日[1][2] - 1966年(昭和41年)5月10日[1][2])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。
経歴
編集宮城県出身[1][2][3]。大場喜七の二男として生まれる[1]。仙台陸軍地方幼年学校、陸軍中央幼年学校を経て、1903年(明治36年)11月、陸軍士官学校(15期)を卒業[1][2][4]。1904年(明治37年)3月、歩兵少尉に任官し歩兵第27連隊付となる[1][4]。1914年(大正3年)11月、陸軍大学校(26期)を卒業し歩兵第27連隊中隊長に就任した[1][2][3]。
陸士教官を経て、1919年(大正8年)10月から1920年(大正9年)1月まで浦塩派遣軍参謀としてシベリア出兵に参加した[1]。以後、歩兵第8連隊大隊長、第3師団参謀を務め、1922年(大正11年)8月、歩兵中佐に昇進[1]。1923年(大正12年)8月、航空第4大隊長に就任し、1925年(大正14年)5月、兵科を航空兵に転科し航空兵中佐となり陸軍航空本部員に転じた[1]。1926年(大正15年)3月、航空兵大佐に進み航空本部第2課長に就任[1][3]。その後、所沢陸軍飛行学校教育部長、明野陸軍飛行学校教育部長を歴任し、1931年(昭和6年)8月1日、陸軍少将に昇進と同時に待命となり、同月29日、予備役に編入された[1][2][3]。
栄典
編集- 位階
- 1904年(明治37年)5月17日 - 正八位[6]
- 1905年(明治38年)8月18日 - 従七位[7]
- 1910年(明治43年)9月30日 - 正七位[8]
- 1915年(大正4年)10月30日 - 従六位[9]
- 1920年(大正9年)11月30日 - 正六位[10]
- 勲章
- 1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章[11]
著作
編集- 『空中戦』〈軍事科学講座 第6篇〉文芸春秋社、1932年。
- 『狩猟』文芸春秋社、1932年。
- 『空軍』改造社、1933年。
- 『猟犬の種類と芸能』丸ノ内出版社、1933年。
- 『防空読本』偕成社、1937年。
- 『名将兵談』実業之日本社、1938年。
- 『ポケツト兵法』中央公論社、1939年。
- 『秋風五丈原』中央公論社、1939年。
- 『殲滅戦』育生社、1939年。
- 『成吉思汗全伝』大場弥平、1940年。
- 『作戦要務令戦闘原則図解』成武堂、1943年。
- 『第二次大戦前史』弘学社、1944年。
- 『孫子兵術の戦史的研究』九段社、1959年。
- 『城攻め : その戦略戦術』人物往来社、1965年。
- 共著
- 上田修一郎との共著『ナポレオン戦略』〈国防双書 第2篇〉甲陽書房、1966年。
- 講
- 公田連太郎訳『兵法全集』全7巻、中央公論社、1935-36年。
親族
編集脚注
編集- ^ a b c d e f g h i j k l m n 『日本陸海軍総合事典 第2版』37-38頁。
- ^ a b c d e f 『日本陸軍将官辞典』158頁。
- ^ a b c d 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』201頁。
- ^ a b 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』194、201頁。
- ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」123頁。
- ^ 『官報』第6267号「叙任及辞令」1904年5月24日。
- ^ 『官報』第6648号「叙任及辞令」1905年8月26日。
- ^ 『官報』第8185号「叙任及辞令」1910年10月1日。
- ^ 『官報』第976号「叙任及辞令」1915年11月1日。
- ^ 『官報』第2500号「叙任及辞令」1920年12月1日。
- ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
参考文献
編集- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典第 2版』東京大学出版会、2005年。
- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。