大内弘貞
周防国の在庁官人・大内氏の第4代当主
大内 弘貞(おおうち ひろさだ)は、周防国の在庁官人・大内氏の第4代当主[注釈 1]。
時代 | 鎌倉時代 |
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生誕 | 不詳 |
死没 |
弘安9年7月7日(1286年7月29日)? 同年7月17日[1](8月8日)? 寛元2年(1244年)9月18日[1]とも |
別名 | 大内介[1] |
戒名 | 本州別駕覚浄大禅定門[1] |
官位 | 従五位下[1]、周防介[1] |
幕府 | 鎌倉幕府 |
氏族 | 多々良姓大内氏 |
父母 | 父:大内弘成[1]、母:不詳 |
兄弟 | 弘貞、黒川貞保[1]、女子[2]、女子[2]、江木弘房[2] |
子 | 貞長、弘家[2]、末武弘藤[2] |
生涯
編集祖父・満盛は鎌倉幕府の設立に貢献し、周防・長門国における領地を広げたが、西国武士ということもあって完全なる幕府の管轄は受けなかった。
しかし、弘貞は幕府の御家人に近いような振る舞いをするようになり、幕府による閑院御所の造営にも加担した。弘安4年(1281年)の元寇の際には幕命を受けて、豊前国へ進出。元軍に備えた。
弘貞は信仰心篤い武将で、古尾にあった八幡宮を分けて、須川に北方八幡宮を、そして吉沢に南方八幡宮を建立した。さらに康元2年/正嘉元年(1257年)に興隆寺に鐘を寄進。文永3年(1266年)、宮野中村熊坂に大照寺を創建した。現在も残る右田ヶ岳観世音菩薩の縁起についても、文永11年(1274年)に弘貞が夢を見たことをきっかけに堂宇を建てて、観世音菩薩像を収めて連日参詣し、周防国の守護仏としたことが始まりとされる。その他瑞雲寺(柳井市)等周防国内の多くの寺院の創建に関わった。
脚注
編集参考文献
編集- 防長新聞社山口支社編 編『近世防長諸家系図綜覧』三坂圭治監修、防長新聞社、1966年3月。 NCID BN07835639。OCLC 703821998。全国書誌番号:73004060。 国立国会図書館デジタルコレクション