夜遊びの帝王
『夜遊びの帝王』(よあそびのていおう)は、1970年公開の日本映画。製作:東映東京撮影所、配給:東映。
夜遊びの帝王 | |
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監督 | 斎藤武市 |
脚本 | 小野竜之助 |
出演者 |
梅宮辰夫 山城新伍 富士真奈美 永原和子 小林稔侍 |
音楽 | 小杉太一郎 |
主題歌 | 梅宮辰夫「シンボルロック」 |
製作会社 | 東映東京撮影所 |
配給 | 東映 |
公開 | 1970年7月7日 |
上映時間 | 88分 |
製作国 | 日本 |
次作 | 女たらしの帝王 |
概要
編集梅宮辰夫主演による“帝王シリーズ”第一作[1][2][3][4]。文献によって梅宮と山城新伍コンビによる“帝王シリーズ”とするものもある[5]。
タイトル命名は岡田茂東映プロデューサー[4]。本作は最初から“帝王シリーズ“としてシリーズ化が決定しており[2]、映画公開前の『キネマ旬報』に"梅宮辰夫の新シリーズ"と紹介されている他[2]、ポスターに"夜の辰兄いシリーズ第一弾"と書かれている[6]。
“帝王シリーズ“全5作品は、九州の炭鉱町から上京した梅宮が少年院時代に知り合った相棒で浅草でヤクザになっていた山城新伍を頼って上京し、夜の盛り場を舞台に共に女を騙して金を稼ぎ、成り上がって故郷に病院を建てるという内容[2][7][8][9]。舞台が銀座をメインとしたり、大阪をメインに変わるが「夜の青春シリーズ」『夜の手配師』などに共通する部分も多い[3]。
キャスト
編集スタッフ
編集製作
編集松竹大船時代に助監督として小津安二郎監督の『東京物語』などに就き[10]、日活移籍後は監督として「渡り鳥シリーズ」や『愛と死をみつめて#映画』を大ヒットさせた斎藤武市が、1970年に東映移籍後の初監督作[10]。タイトルからは想像し辛いが『キネマ旬報』1970年7月下旬号の「日本映画紹介」には「従来の梅宮ものとは異なり、純愛色の強いものとなっている」と書かれている[2]。
キャスティング
編集梅宮は1972年3月にクラウディア・ヴィクトリアと再婚し、キッパリ女遊びをやめたが[3]、それまでは毎晩のように銀座のネオン街に繰り出し「夜の帝王」を自認していた[11][12][13]。
山城新伍は「不良番長シリーズ」第4作『不良番長 送り狼』の監督・内藤誠に誘われ[14]、自身も所属した東映京都撮影所では出番が少ないとそのまま東映東京撮影所に居ついたものだが[15][16]、梅宮は「山城と付き合いがより深まったのは、コンビを組んだ“帝王シリーズ“から」と述べている[15]。
宣伝のため、梅宮の相手を務めるホステスをオーディションで募集[17]。40人の募集があったが、お目当て銀座のホステスは一人も来ず、新宿と渋谷のホステス12人を採用した[17]。この中で最もマスメディアに取り上げられたのが幾代役の山本マミで[18][19][20]、山本は日劇ミュージックホールに出ていた鵬アリサがママを務める新宿のゴーゴークラブ「マキシム」の現役ホステス兼ダンサーだった[19][20]。本作の好演が認められ『不良番長 出たとこ勝負』にも出演したが、「店の宣伝になると思って出ただけよ。オッパイ出してベッドシーンもやらされちゃったの。そりゃ私だって有名になりたいけど、一週間も撮影に取られてギャラはたったの二万五千円。映画女優って割が合わない商売ね」などと不平を述べた[19][20]。
また、梅宮も「ボクの主演映画はご存知のように不良性感度の高いものばかりですから、相手をする女優が、あとでテレビ出演に響くといい顔しないんです。となれば、ボク自身が出かけて行って捜してこなければならない。捜すなら、勝手知ったるネオン街が手っ取り早い。銀座のクラブには女優より美しいコがゴロゴロしていますから」とタレントのスカウトに自ら乗り出した[20]。梅宮の実弟は銀座のナンバーワンスカウトと言われた人で[21]、梅宮は銀座のクラブホステスを実際にスカウトし、友人の上条英男の事務所「ジュエム・カンパニー」(後に「サンズ・カンパニー」)に預けた[20][22]。梅宮がスカウトしたホステスで最も売れたのが五十嵐じゅん(五十嵐淳子)[20][22]。
主題歌
編集“帝王シリーズ”は、全作主題歌として梅宮が1970年に発売した「シンボルロック」を使用している[4][8][23][24][25]。同曲は「シンボル=男根で女を泣かせて金をせしめる」という歌詞内容が引っ掛かり[13]、1983年に民放連の指定制度が廃止されるまで放送禁止歌だったとされる[13][25][26]。梅宮本人はこの曲を気に入っており、晩年においてもディナーショーなどのイベントで披露することもあった[24][25]。
帝王シリーズ
編集梅宮主演による“帝王シリーズ”は、同じ梅宮主演だった「夜の青春シリーズ」「夜の歌謡シリーズ」『夜の手配師』など、梅宮がプレイボーイ役、遊び人役に扮する不良路線の後継シリーズで[8][18][27]、当初は"純愛もの"を目指したとする文献もあるが[2]、内藤誠に監督が交代した三作目辺りから「夜の青春シリーズ」「夜の歌謡シリーズ」「不良番長」などと変わらないシリーズとなった[3][7][13]。東映で最も長いシリーズになった同じ梅宮主演の「不良番長シリーズ」と並行して製作された[3][8][15]。
同シリーズは、1970年7月公開の『夜遊びの帝王』を第一作に、第二作『女たらしの帝王』(1970年9月)、第三作『
第一作、第二作の監督が斎藤武市で、第三作から岡田茂が監督を内藤誠に交代させた[31]。第三作~第五作が内藤誠監督。斎藤は第三作『未亡人ごろしの帝王』の同時上映でメイン作の任侠映画『極悪坊主 飲む打つ買う』の監督にスライドしている。脚本は5本全て小野竜之助であるが、全作ほぼ似通っており、梅宮が夜の盛り場を舞台に女性絡みの仕事で成り上がるというストーリー。梅宮辰夫と山城新伍の役名も一字ずつ変わる。監督が内藤に交代した第三作以降は、はっきり、梅宮が"巨大なシンボルを武器に成り上がるという設定を打ち出した[4][32][33]。
作品の評価
編集同時上映
編集『遊侠列伝』
脚注
編集- ^ a b “帝王シリーズ”. 日本映画製作者連盟. 2019年1月26日閲覧。
- ^ a b c d e f 「日本映画紹介 『夜遊びの帝王』」『キネマ旬報』1970年7月下旬号、キネマ旬報、87-88頁。
- ^ a b c d e 「東映B面作品を支え続けた偉大な男の生涯 梅宮辰夫の映画人生 文・藤木TDC」『悪趣味邦画劇場〈映画秘宝2〉』洋泉社、1995年、131-138頁。ISBN 978-4-89691-170-1。
- ^ a b c d e f 佐伯俊道「終生娯楽派の戯言 第十二回 添え物人生走馬燈」『シナリオ』2013年5月号、日本シナリオ作家協会、122-125頁。
- ^ 「タウン『女たらしの帝王』」『週刊新潮』1970年9月19日号、新潮社、14頁。
- ^ “夜遊びの帝王”. 日本映画製作者連盟. 2019年1月26日閲覧。
- ^ a b 「タウン 映画 『夜遊びの帝王』」『週刊新潮』1970年7月18日号、新潮社、14頁。
- ^ a b c d 佐藤静子「今月の映画 梅宮辰夫・シンボルの帝王になるまで」『映画芸術』1970年11月号、編集プロダクション映芸、56-58頁。
- ^ 佐伯俊道「終生娯楽派の戯言 第十一回 その名も東映番外地」『シナリオ』2013年4月号、日本シナリオ作家協会、70-73頁。
- ^ a b 『日本映画監督全集』キネマ旬報社、1976年、171頁。
- ^ 愛娘の元彼・羽賀を“希代のワル”と見抜いた梅宮辰夫の慧眼 日刊ゲンダイDIGITAL 2019年1月24日/ 俳優・梅宮辰夫が“番長”続行宣言! チケットぴあ 2009年2月5日 / 「梅宮辰夫にプレイボーイを廃業させた151番目の金髪娘」『週刊現代』1972年3月16日号、講談社、148-151頁。
- ^ “うちのルール 俳優 梅宮辰夫(47)宅 『夜の帝王』変じて『台所の帝王』”. 読売新聞 (読売新聞社): p. 19. (1986年3月4日)
- ^ a b c d 杉作J太郎・植地毅「俳優・梅宮辰夫の軌跡 ~少年ヒーロー、番長、ヤクザ、板前、そしてオネエの警視正まで 文・植地毅」『不良番長浪漫アルバム』徳間書店、1999年、52-55頁。ISBN 978-4-19-864354-6。
- ^ 病魔と闘う荒ぶる役者たちの不屈秘話 「第2回・梅宮辰夫」(1)女を泣かす梅宮で売り出せ アサ芸プラス 2016年10月26日
- ^ a b c 「DVDコレクション・スペシャルインタビュー 梅宮辰夫(「不良番長」)シリーズ) 文・秋本鉄次」『東映キネマ旬報』2007年3月号、東映ビデオ、184-185頁。
- ^ 梅宮辰夫&内藤誠トークイベント(第1回 / 全2回) 東映(Facebook) 2012年5月27日 / 梅宮辰夫 〝新伍が逝った〟 2009年8月19日
- ^ a b 「バックミラー」『週刊朝日』1970年6月5日号、朝日新聞社、108頁。
- ^ a b 「LOOKげいのう『ホステス女優・山本マミの"名言"』」『週刊現代』1970年7月9日号、講談社、33頁。
- ^ a b c 「『"映画出演なんてバカバカしいわね" ―ホステス出身の山本マミが怪気炎』」『週刊明星』1970年7月9日号、集英社、157頁。
- ^ a b c d e f 「芸能速報版梅宮辰夫がプールする"夜の蝶"の顔ぶれ」『週刊現代』1970年10月22日号、講談社、143-144頁。
- ^ 「"梅宮一族"の誇りにもう一ページ 『弟は銀座夜の手配師といわれる梅宮辰夫』」『週刊文春』1970年6月8日号、文藝春秋、147-149頁。
- ^ a b 「意外! 五十嵐じゅん(19)が銀座でホステスをやっていた!なぜ?"」『週刊平凡』1971年12月2日号、マガジンハウス、164-166頁。
- ^ カルト歌謡カルタ【た】梅宮辰夫「ダイナマイト・ロック」
- ^ a b 梅宮辰夫が伝説の作品群の秘話を語り尽くす!! ザテレビジョン 2016年5月10日
- ^ a b c 梅宮辰夫「名言だらけのディナーショー」30針縫っても、麻酔が切れても「俺はやる!」 日刊大衆 2018年3月17日
- ^ 梅宮辰夫80歳で初ディナーショー 過激“発禁ソング”披露へ Sponichi Annex 2018年3月4日 / 梅宮 辰夫 / 夜遊びの帝王 VINYL DEALER
- ^ 「『昭和キネマ横丁』インタビュー 梅宮辰夫 東映アーリーデイズ 文・藤木TDC」『映画秘宝』2014年11月号、洋泉社、79頁。
- ^ 杉作J太郎・植地毅「内藤誠インタビュー」『東映ピンキー・バイオレンス浪漫アルバム』徳間書店、1999年、107頁。ISBN 4-19-861016-9。
- ^ 杉作J太郎、植地毅「佐伯俊道インタビュー」『東映スピード・アクション浪漫アルバム』徳間書店、2015年、170頁。ISBN 978-4-19-863792-7。
- ^ 吉田豪「山城新伍インタビュー」『男気万字固め』エンターブレイン、2001年、20頁。ISBN 4-7577-0488-7。
- ^ 杉作J太郎・植地毅「内藤誠インタビュー」『不良番長浪漫アルバム』徳間書店、1999年、269頁。ISBN 978-4-19-864354-6。
- ^ 「NEWS MAKERS 『梅宮辰夫が地で行ける『未亡人殺しの帝王』への評判」『週刊ポスト』1971年3月5日号、小学館、24頁。
- ^ 杉作J太郎・植地毅「内藤誠監督作品ガイド」『不良番長浪漫アルバム』徳間書店、1999年、230頁。ISBN 978- 4-19-864354-6。
- ^ 「シネガイド 対談 大黒東洋士・深沢哲也 『今週の見どころ』」『週刊明星』1970年7月19日号、集英社、77頁。