多賀谷三経
多賀谷 三経(たがや みつつね)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。結城氏の家臣。多賀谷重経の子。初名は光経(みつつね)だが、後に烏帽子親となった石田三成から一字を与えられて改名した。
時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
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生誕 | 天正6年(1578年) |
死没 | 慶長12年7月21日(1607年9月12日) |
改名 | 虎千代(幼名)→光経→三経 |
官位 | 左近大夫 |
主君 | 結城秀康→松平忠直 |
藩 | 福井藩 |
氏族 | 桓武平氏野与党多賀谷氏 |
父母 | 父:多賀谷重経 |
兄弟 |
三経、忠経、茂光、菅谷経晃、 大寿院(佐竹義宣継室)、珪台院(多賀谷宣家正室) |
子 | 泰経 |
生涯
編集天正6年(1578年)、常陸国下妻城城主・多賀谷重経の子として誕生。幼名は虎千代。
多賀谷氏は結城氏と佐竹氏に両属する形で勢力を保っていたが、天正18年(1590年)の小田原征伐の後、天下人となった豊臣秀吉の命令により、結城氏を相続した結城秀康に従うこととなる。これに不満を抱いた父・重経が佐竹氏と結んで離反したため、その後の調整で三経は支城の太田城を与えられて分知。父の後継には佐竹義重の子・多賀谷宣家が養子として入り、三経は事実上、多賀谷家から追放された。
互いに父親の愛情薄い三経の身の上を案じた主君・秀康から御普請与頭に任ぜられ、重く用いられた。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは秀康に従い、上杉家の抑えとして活動。上杉景勝の南下を防いだ功により、秀康は越前に加増転封される。三経もこれに従って越前国柿原(現福井県あわら市柿原)で3万2,000石を領し、加賀前田家や丹羽家の動きを監視する重要な地を任された。家臣団は200名ほどであり、僅かな期間の統治ではあったが、館を構えて城下町を形成し、領内に溜池をいくつも作り、農作の安定を図ったと伝わる。知行地の館とは別に、秀康の本城である北の庄城(福井城)の城下、郭内の重要な場所に、かなりの大きさの屋敷を与えられている。
慶長12年(1607年)に主君・秀康が病死すると、3ヶ月後の7月21日、その後を追うかのように病死した。享年30。
墓所
編集戒名は「黔宗祥堅居士」。
火葬して埋葬されたと伝わる墓所は旧領地である柿原に存在する。石廟が存在したが、昭和23年(1948年)の福井大地震で倒壊した。昭和63年(1988年)から本格的な調査と復元が行われ、平成3年(1991年)に復元が完了した。この際、地下から骨壺が発見され、富山医科薬科大学の調査で三経のものと同定された。菩提寺の専教寺で法要が行われ、再度埋葬された。