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多禰国(たねのくに)または多褹国は、かつて日本の地方行政区分であった令制国の一つ。西海道に位置する。領域は現在の鹿児島県大隅諸島種子島屋久島・口永良部島)にあたる。

多禰国の位置(702年)

702年から824年まで122年間存続した。

名称

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多禰の場合、国のかわりに島の字を用いて、多禰國を多禰島、その国司を島司と表すこともあった。国を島とも呼ぶのは、対馬壱岐と共通する。日本書紀では多禰(多禰島)と7か所、続日本紀では多褹(多褹島)と21か所の記述あり。

沿革

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多禰の初見は『日本書紀』の天武6年(677)2月条「是の月、多禰嶋人等に飛鳥寺の西の槻の下に饗へたまう」である。

また、『日本書紀』の天武10年8月20日の条に「多禰嶋に遣わした使節が、多禰国の地図を(天武天皇に)たてまつる」とあり、使者は一年以上多禰嶋に滞在して南島の調査等を行い報告の為の地図を作製した。これは信濃国の地図作成に先立つものであった。(この地図は日本における地図第一号と思われる(実在はしない文献上)多禰国年表

『続日本紀』大宝2年(702)8月1日条に「薩摩(隼人)と多褹が化を隔てて命に逆らう。是に於いて兵を発して征討し、戸を校して吏を置けり」という記事があり[1]、これが「薩摩国」と「多禰国」同時建置を示すと考えられている。

『続日本紀』和銅7年(714)4月25日条に元明天皇が多褹島の公印一箇を与えた旨の記述がある[2]

遣唐使

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多褹国が存続した期間中、遣唐使が多褹国(多褹島)に帰着したことが二度ある。

一度目は天平6年(734)11月20日で、大使多治比広成の乗船が帰国した[3][注釈 1]

二度目は天平勝宝5年(753)12月12日(又は12月7日)で、この時には琉球を3隻で発って多禰嶋を目指した遣唐使船のうち

第2船・第3船が多褹国の益救嶋(屋久島)に帰国した。この第2船には鑑真が乗船しており、日本への来日を果たした[注釈 2]

廃止

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国の格付けは、南島(奄美・沖縄方面)との交流や遣唐使の派遣、隼人対策などの点から重要視されて中国とされていた。しかし実際には小国をはるかに下回る規模の税収しかなく、行政的な運営経費の不足分は大宰府が他の国から補填していた。しかし隼人の対策が一段落し、遣唐使の派遣経路が変わると多禰島の重要性は薄れてきた。

大宰府管内の飢饉に対処するために、多禰島の運営経費に当てていた税収が減少することになったため、財政の見直しの観点から天長元年(824)10月1日に多褹嶋司を司を廃止し[4]能満郡熊毛郡馭謨郡益救郡の四郡を熊毛郡・馭謨郡の二郡に再編して大隅国に編入した。なお、都良香が手掛けた太政官奏太政官謹奏 停多褹島隸大隅國事)は名文とされ、『本朝文粋』にも収録されている。

国内の施設

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国府

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国府の所在については、諸説あって未だ定まっていない。

神社

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人物

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国司

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  1. 大伴上足天平宝字四年五月九日(760年6月30日)任
  2. 佐伯毛人天平神護元年正月六日(765年2月4日)任
  3. 中臣習宜阿曾麻呂宝亀元年八月二十一日(770年9月18日)任、同三年六月六日(772年7月14日)任大隅守

脚注

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注釈

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  1. ^ この船には吉備真備玄昉らが乗船し、帰国を果たした。
  2. ^ 大使藤原清河阿倍仲麻呂らを乗せた第1船は琉球出航後に遭難し安南に漂着。第3船には、2度目の入唐から帰国した副使吉備真備が乗船していた。

出典

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  1. ^ 『続日本紀』巻二 大寶二年八月丙申条。「薩摩多褹。隔化逆命。於是發兵征討。遂校戸置吏焉」。
  2. ^ 『続日本紀』巻六 和銅七年四月辛巳条。「給多褹嶋印一圖」。
  3. ^ 『続日本紀』巻十一 天平六年十一月丁丑条。「入唐大使從四位上多治比眞人廣成等來著多祢嶋」。
  4. ^ 『日本後紀』巻三十二 天長元年十月丙子条。「停多褹嶋司、隷大隅国」。

参考文献

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  • 原口 泉・永山 修一・日隈 正守・松尾 千歳・皆村 武一 『鹿児島県の歴史』 山川出版社 1999年 ISBN 4-634-32460-1
  • 『唐大和上東征伝』淡海三船無舟

関連項目

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外部リンク

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