多治比真浄
多治比 真浄(たじひ の まきよ、生没年不詳)は、奈良時代から平安時代初期にかけての貴族。氏姓は丹比宿禰のち多治比宿禰。鋳銭次官・丹比真継の子。官位は従五位下・讃岐介。
出自
編集丹比氏(丹比宿禰)は、尾張氏の同系氏族とされる地祇系氏族。名代部の一つ丹比部の中央伴造氏族であったが、宮城十二門の一つ多治比門の門号氏族として、軍事的な役も担っていた。姓はもと連であったが、天武天皇13年(684年)八色の姓の制定の際に宿禰姓に改姓したと想定される[1]。
経歴
編集外従五位下に叙せられた後、光仁朝の宝亀8年(777年)山背介に任ぜられる。
桓武朝に入ると、延暦3年(784年)6月に長岡宮の造営を行うために中納言・藤原種継らとともに造長岡宮使に任ぜられ、同年12月に造宮使らに対する叙位が行われ、真浄は二階昇進して外正五位下に昇叙される。延暦4年(785年)右衛士佐を経て、延暦5年(786年)内位の従五位下に叙せられるが、延暦6年(787年)丹波介として地方官に転じた。のち、延暦8年(789年)皇太后・高野新笠、延暦9年(790年)皇后・藤原乙牟漏の葬儀では、いずれも作路司を務めている。
その後、丹比宿禰姓から多治比宿禰姓に改姓し、延暦15年(796年)10月に肥後介、同年12月に内匠頭、翌延暦16年(797年)2月には讃岐介と、短期間に複数の官職に補任されている。
官歴
編集『六国史』による。
脚注
編集- ^ 佐伯[1994: 297]