多治比乙安
経歴
編集称徳朝の神護景雲2年(768年)鋳銭次官の官職にあったが、公務に精励していることを賞されて、長官の阿倍清成とともに昇叙を受け、乙安は従五位下に叙爵された。
宝亀7年(776年)7月に畿内諸国に対して検税使が派遣されると、乙安は河内国および和泉国を担当する。宝亀10年(779年)出羽守として地方官に転じるが、天応元年(781年)の光仁上皇崩御に際しては作路司を務めている。
桓武朝初頭の天応2年(782年)右少弁として京官に復すが、延暦3年(784年)肥後守に転じる。延暦9年(790年)鋳銭長官に任ぜられて再び鋳銭司の官職に就き、延暦10年(791年)には23年ぶりに昇叙されて従五位上に至った。
官歴
編集『続日本紀』による。