夏 育(か いく)は、

  1. 中国後漢末期の武将。内容は後述。
  2. 中国戦国時代[1]の人。生没年不詳。武王に仕えた任鄙孟賁烏獲や成荊、慶忌と並ぶ千鈞の物を持ち上げる大力無双の勇士[2]と知られ、後世の三国志に登場する曹仁程昱らを比肩する過去の勇士の名前として孟賁と共にその名がよく使われる。

夏 育(か いく、生没年不詳)は、中国後漢末期の武将。下邳郡淮浦県の出身[3]

経歴

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霊帝の時代に護羌校尉、北地太守護烏桓校尉を歴任した。

熹平3年(174年)冬、北地郡に侵入した鮮卑を北地太守の夏育は休屠各を率いてこれを撃破した。この功により夏育は護烏桓校尉となる。

熹平6年(177年)、夏育は破鮮卑中郎将の田晏、使匈奴中郎将の臧旻、南匈奴屠特若尸逐就単于の軍と檀石槐を討伐に出るが敗れ多くの兵を失い、その罪の為庶民に落とされた。

脚注

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  1. ^ 漢書史記集解より
  2. ^ 史記范雎蔡沢列伝第十九
  3. ^ 袁宏 後漢紀・巻24

参考文献

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  • 史記・范雎列伝