増山 正治(ましやま まさはる、文久元年10月6日1861年11月8日) - 1929年昭和4年)4月7日)は、明治時代から昭和時代初期の華族伊勢長島藩の第8代(最後)の藩主増山正同婿養子新発田藩溝口直溥(母:善尾)の八男。幼名は信太郎、初名は直和。妻は養父正修の娘八十子、後妻に喜三子。養子、溝口正理溝口直正の七男。のちに離縁)、増山正興(第21代当主)。

増山 正治

生涯

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1879年明治12年)3月、増山正同の養子となる。1884年(明治16年)、宮中祗候となる。1886年(明治18年)、青山御所勤番となる。1887年(明治20年)6月、家督を相続し、子爵となった。1924年大正13年)10月30日に隠居し[1]、家督は養子の正興が継いで同年11月15日に子爵を襲爵した[2][3]

脚注

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  1. ^ 『官報』第3667号、大正13年11月12日。
  2. ^ 『平成新修旧華族家系大成』下巻、560-561頁。
  3. ^ 『官報』第3671号、大正13年11月17日。

参考文献

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外部リンク

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日本の爵位
先代
増山正同
子爵
長島増山家第2代
1887年 - 1924年
次代
増山正興