塩谷 青山[1](しおのや せいざん、1855年3月15日安政2年1月27日[2] - 1925年大正14年)2月2日)は明治・大正時代の漢学者。青山(せいざん)は、本名は時敏(ときとし)、は修卿(しゅうけい)。

塩谷 青山
人物情報
生誕 (1855-03-15) 1855年3月15日
日本の旗 日本東京都
死没 1925年2月2日(1925-02-02)(69歳没)
塩谷 時敏
出身校 昌平黌
子供 塩谷温(漢学者)
学問
研究分野 漢学
研究機関 第一高等中学校
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生涯

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出生から修学期

1855年(安政2年)、塩谷簣山[3]の子として江戸に生まれた。家学を受けたあと、昌平黌で学んだ。維新後は芳野金陵島田篁村中村敬宇らに師事して学んだ[4]

家塾教授あるいは修史局勤務時代

1873年、父・簣山の没後、家学を継いで家塾で教授をはじめた[5]。1875年に内閣修史局に出仕したが、翌年辞職。1984年になって再び修史局に出仕した[5]

第一高等中学校勤務時代

1889年に第一高等中学校(のちの第一高等学校)教授となり、1920年までの32年間その職にあった[4]剣道に通じ、文武二道を奨励した[4]。気節を重んずる一高の校風は、青山に負うところが多いと言われる[4]

一高教授として教鞭をとる一方で、小石川の私塾「菁莪書院」で英才を教育した[4]倉石武四郎は菁莪書院で学んだ思い出を語り[6]法制史家の瀧川政次郎は「私がこれらの書名(顧炎武の『日知録』や趙翼の『二十二史箚記』)を知ったのも塩谷時敏先生の塾に於てである」と述べている[7]三木清はその著『読書遍歴』の中で、「その時代私の読書における一つのエピソードは、塩谷温先生-その御尊父青山先生から私どもは学校で漢文を習った-のお宅に伺って『資治通鑑』を読むという小さな会に参加したことである」と青山・温親子に教育されたことをなつかしく回想している[8]

1925年、70歳で死去。 

研究内容・業績

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著書に「青山文鈔」「文章截錦」「漢文類別」などがある。

家族・親族

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著作

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著書
  • 青山文鈔』菁莪書院(日本大学) 1905
  • 漢文類別 今編上』 青山子(日本大学)1906
  • 文章裁錦』青山先生口講、小野元彦筆記、菁莪書院(日本大学) 1907
  • 『菁莪園墨帳』1924

参考文献

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脚注・参考文献

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脚注

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  1. ^ 旧字体の場合、「鹽谷」。
  2. ^ 塩谷青山』 - コトバンク
  3. ^ 塩谷宕陰の嗣子となって後を継いだ。
  4. ^ a b c d e 鹽谷 青山(しおのや せいざん) 日本漢文の世界 kambun.jp”. kambun.jp. 2024年6月15日閲覧。
  5. ^ a b 塩谷青山』 - コトバンク
  6. ^ “学問の思い出 倉石武四郎博士を囲んで”. 東方学 40. (1970). 
  7. ^ 瀧川政次郎 (1968). “佐藤誠実の律令学”. 国学院法学 (国学院大学法学会) 5 (3): 28. https://dl.ndl.go.jp/pid/2689482/1/18. 
  8. ^ 三木清『読書遍歴』1984年、391頁https://dl.ndl.go.jp/pid/12230499/1/204 
  9. ^ 塩家三世』〈礫荘雑話〉1940年、1頁https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1908831/1/8 
  10. ^ 臥孌堂