塚本善五郎
日本の海軍軍人(1864−1904)
塚本 善五郎(つかもと ぜんごろう、明治2年10月16日(1869年11月19日)[1] - 明治37年(1904年)5月15日)は、日本の海軍軍人。海軍大学校を首席卒業し、日露戦争初期に戦死。最終階級は海軍少佐。正六位勲四等功四級。娘の文は芥川龍之介に嫁ぎ、善五郎にとっては孫にあたる芥川比呂志(俳優)、多加志(ビルマで戦死)、也寸志(作曲家)を産んでいる[2]。家紋は「丸に松皮菱」。
生誕 |
1869年11月19日 日本・東京府 |
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死没 |
1904年5月15日(34歳没) 旅順港港外 |
所属組織 | 大日本帝国海軍 |
軍歴 | 1892年 - 1904年 |
最終階級 | 海軍少佐 |
概要
編集海軍兵学校17期。席次は入校時53名中6番。卒業時88名中6番。同期生に秋山真之 、森山慶三郎、山路一善らがいる。1892年(明治25年)5月、少尉任官。日清戦争期は「高雄」航海士であった[3]。1897年(明治30年)、甲種作業答案として作成した「遠征艦隊編成法」が成績優秀と認められる[4]。1900年(明治33年)海軍大学校将校科乙種2期を優等卒業[5]。専攻は砲術であった。次いで海大将校科甲種3期に進み首席で卒業した。
→詳細は「海軍大学校卒業生一覧 § 将校科甲種3期」を参照
谷口尚真、百武三郎が同期である。日露戦争に第一艦隊第一戦隊の先任参謀として出征。同僚の後任参謀は斎藤七五郎であった。1904年5月15日午前9時55分、旅順港外閉鎖に従事中の戦艦「初瀬」が露海軍の敷設した機雷に触雷。午前11時38分、後部砲塔下付近に再び触雷し「初瀬」は沈没。塚本ら496名が戦死した。
栄典・授章・授賞
編集- 位階
- 勲章等
- 1895年(明治28年)11月18日 - 明治二十七八年従軍記章[8]
脚注
編集出典
編集- ^ 『海軍兵学校出身者戦死者芳影録』23頁
- ^ 『海軍兵学校物語』73頁
- ^ “西海艦隊及附属艦船乗組員”. アジア歴史資料センターRef.C06061767500、明治27年 「海軍に関する書類」(防衛省防衛研究所)」. 2013年1月20日閲覧。
- ^ 『横鎮第2970号 明治31年8月10日 甲種作業答案進達(1)』、 『龍田普第271号 明治31年7月14日 軍艦龍田作業実施報告』
- ^ 『日本陸海軍総合事典』「海軍術科学校卒業生」
- ^ 『官報』第2708号「叙任及辞令」1892年7月8日。
- ^ 『官報』第4402号「叙任及辞令」1898年3月9日。
- ^ 『官報』第3858号・付録「辞令」1896年5月12日。
参考文献
編集- 「横鎮第2970号明治31年8月10日 甲種作業答案進達(1)」(ref:C10100131300)
- 「龍田普第271号 明治31年7月14日 軍艦龍田作業実施報告」(ref:C10100132000 )